小説『森一族』

戦国時代を彗星の如くに生きた森一族の小説です。 SINCE:2008/9/20

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第四話:「予感」

 森与三は馬を走らせ、獲物と定めた武者を目指した。馬印はもはや倒されて誰かは知らぬが、身なりはいい。そして小柄で、確実に与三よりも弱そうだ。運よく敵は、側近たちとも距離を隔て、小姓らのような者しか従えていない。
相手は逃げることしか頭にないし、馬に乗っているので、逃亡兵の押し合う混雑を避けて脇へ出て走ろうとするだろう。それを待ち受けてとびかかれば、その首を獲ることも夢ではない。

 その時である。
伝九郎が馬を全力疾走させて走ってきたかと思うと、無言で与三を抜いた。伝九郎は戦場の場数などほとんど踏んでいない。だから大将の長井隼人は伝九郎に合戦の雰囲気だけを味あわせるつもりで、伝九郎を本陣の後ろにひっこめていたはずなのに、それがいつの間にか持ち場を離れて与三の後を追ってきたようである。しかも、与三よりも遥かに質の良い名馬に乗る彼である。伝九郎はたちまち与三と距離をつき離して、ぐんぐん敵に近づいてゆく。
与三は、自分の目をつけたのと同じ武将を伝九郎が追っていることを知ると、出し抜かれた怒りで身体中の血を逆流させた。
「伝九郎殿、返せ!そなたには無茶だ!」
与三は後方から馬で追って叫ぶが、伝九郎は聞いたふうではない。
「深入りするな!伝九郎殿!」
与三は大声を張り上げたが、伝九郎にはあらん限りの力を振り絞って馬を走らせ、目の前の敵に追いつくことしか頭にない。
 伝九郎の存在に気づいた敵将の小姓ふたりは、息を合わせたように同時にザッと馬首を返して、猛然と襲いかかってきた。決死の覚悟で憤然と向かってくる敵に驚いて、伝九郎はすぐに逃げ腰になってしまった。とたんに、敵は伝九郎の馬の首を鑓で突き、そうするとさすがの名馬も狂ったように嘶(いなな)いて馬上の主人を勢いよく振り落とそうとした。伝九郎は自分の左手に馬の手綱を巻きつけていたために落馬しきれずに馬の首につり下がって振り子のようにドンドンと馬の体に当たる。馬はますます興奮して伝九郎を引きずりながら合戦とは関係のない草むらの方向に暴走し始めた。
「まずい。」
与三と武藤は、伝九郎を死なせる訳にはいかないので、暴れ馬を追って走った。馬の首から吹き出る血しぶきで伝九郎の上半身は真っ赤に染まり、土煙があがるほどに引きずられ、時には石に衝突して手毬のように跳ね上がってギャッと叫んでいた。
 与三は、馬を追ったせいで完全に戦場から外れてしまった。馬は、与三達を遥かに引き離して走っていたが草むらにガシャガシャと入り込んで速度を落とし、やがて伝九郎を下敷きにして倒れこむ。
 与三と武藤は追いついて下敷きになった伝九郎を引きずり出した。その瞬間に伝九郎は馬の血の混じったものを口から噴出させ、その後も気持ち悪そうにうめいて吐き続けた。
 一方、馬は白い泡を吹いて息も絶え絶えにもだえ苦しみ、もはや眼は天上を向いてこの世のものではない風情である。与三は刀を抜いて馬に寄った。
「やめろ…私が悪いのだ、松波を殺すのはやめてくれ。」
 伝九郎が涙目で首を振って訴える。与三は伝九郎に、いずれにしろこの馬は助からないと口に出したが聞き入れない。伝九郎は引きずられた痛みに腰をあげられず、身体をひねって地面に座りこんだまま、嫌だと与三に懇願する。「馬を連れて帰って名医に診せる。きっと手だてはある。」と言いだし、やがて「私の馬なのだから、勝手な事をするな。」と怒りだした。遠くでは、合戦の声が鳴り響いて与三を待っているというのに、これ以上もたつくことなどできない。
「では、馬はこのままここに置いておき、後で迎えに来よう。まずは伝九郎殿、そなたの介抱が先だ。五郎、儂の馬に伝九郎殿を乗せて本陣に戻れ。」
 そう言っている間に伝九郎の側近がこの場所にたどり着いた。
伝九郎は頭から馬の血を振りかぶっているので側近たちもギョッとしていたが、伝九郎の怪我がそれほどではない事を知ると、勝手に持ち場を離れた事を叱り始め、長井隼人も激怒しているので処罰は免れないと言い放った。伝九郎はその言葉に驚いて、首を振って弱弱しく「違う!違う!」とわめき始めたが、側近らは聞く耳を持たずに早く本陣へ帰させようとする。伝九郎は、やはり腰を痛めているらしく、側近に抱きかかえられるようにして馬にまたがった。まだなお松波を連れて帰るとダダをこねて馬上より与三に視線を落して悔しそうに言う。
「与三。そなたが邪魔立てさえせねば私は敵将の首を取ることもできたし、松波が深手を負うことも無かったのだ。迎えが来るまで松波を死なせないように看てやってくれ。」
与三と武藤は、あまりのことに愕然としながら、彼らが本陣へ戻るのを見送った。
武藤は苦笑いをした。
「合戦時に馬の看病とはとんだお役目でござる。」
与三は首を横にふり、踵を返すと、もはや虫の息で横たわる馬に近づいた。先ほどまで狂気の目つきをしていた馬は、今はつぶらな瞳で斜め上に与三を見上げ、立ち上がろうというのか、もしくはまだ走っていると思っているのか、しきりに前足を宙で動かす。
「もう、立たずともよいのだ。」与三は刀を抜いて、馬にとどめを刺した。
こんな立派な名馬に乗っている伝九郎がどれほど羨ましいことか。

伝九郎は、いざとなればただのガキだった。
年の離れた男との友情ごっこは、冷めて見れば滑稽なものだ。
きっと、本当の友と呼べる男は別の場所にいる。もしや、その友も、今まさに私の存在を探し求めて道を突き進んでいるのかも知れない。
与三は天を仰いだ。
そう、だから自分もそこへ行くために進まねばならない。
待っていても人生は動かない。
「戦に戻るぞ。」与三がそう言うと、武藤らも、大きくうなづいた。



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第五話:「陰鬱な褒美」

 合戦の後の風景は汚い。男どもを興奮させた新鮮な血の匂いは、やがて忌まわしい異臭と化してしばらく大地と川より消える事はなく、埋葬された戦死者の匂いに引き寄せられて、夜ごと獣たちが徘徊する。

 合戦もなくなって、与三は、これといってする仕事もないので織田軍に燃やされた城下町の後片付けと建築を手伝っていた。従来あまりクチを聞く仲でもなかった色々な者たちとも多く知り合うことができて、よい気晴らしにもなり、少しでも自分の世界が広がっていくので楽しかった。それに町の女たちが争って良くしてくれるので、日ごろ持ちあげられることの少ない与三はとても気分がよい。
それでも、夜になって自分の寝床に戻っていくと、またいつもの「このままでよいのか。」「自分はもっと高尚な世界に身を置いていたい。」という憂鬱がぶり返し、その思いとともに、あの戦の血の匂いがよみがえる。
 美濃侵攻を試みた織田信秀は、敵の動きを読み切った斉藤道三によってめった打ちにされ、多くの一族郎党を失って命からがら尾張へ逃げ帰った。連れてきた兵の半分を死なせて国に帰る織田信秀の精神的な苦しみというものは計り知れない。尾張国内の動揺と非難も大きいに違いない。無残に牙をへし折られた虎は、再びこの美濃に姿を現すことはないだろう。
 恐怖で意味を成さぬ叫び声をあげて敗走する者どもに追い打ちをかけ、まるで稲穂を束ねて刈るようにその首を次々と刎ねてゆく。追い詰められた果てに逃げ場を失って荒田川に飛び込み自滅してゆく織田軍。あの報復劇を目の当たりにして、与三は斉藤道三が「マムシ」と言われる所以をつくづく思い知らされ、自分は斉藤方についていてよかったと思った。

「討ち取った首の中には織田一族の者もいたとか。でも、その中に織田信長はいなかったようでござる。」
 朝飯の前に、与三は武藤と将棋をさしていたが、武藤がポロリとそう言った。与三は「信長?」と聞き返した。
「与三さまは、以前、信長の首を取ってやると息巻いておりませなんだか?」
このごたごた続きの中で、与三はすっかり信長のことなんて忘れていた。美濃にいたずらに来ていた少年の存在を思い出し、笑みがこぼれた。
「信長も今は、どんな気持ちで過ごしているのやら。当分はイタズラどころではないだろう。もう、この美濃にも姿を出さぬな。」
「つまらんでござる。もう何事もないのなら、長井殿も関城に戻ると言い始めるかも知れぬし、これから我々はもっと暇になるのでしょうなぁ。」
与三は将棋の盤上の駒を進めて、武藤の”歩兵”を次々に奪っていく。
「お前は稲葉山のほうが好きか。」
 武藤は、うなずいた。関城は稲葉山城の東部に位置する長井隼人の居城である。その関城を拠点にして隼人は可児あたりまでの東美濃一面を見張っていた。故に、与三も東美濃という土地や、国人衆たちの事情には詳しくなったが、そこには稲葉山城とはまた違う複雑な世界がある。隣接する信濃国の脅威に曝され、その一方では鎌倉以来の土岐源氏のはびこる東美濃は与三の興味をかきたてるものではあった。東美濃の土豪らの誇りの高さと、彼ら勢力を常に抑え、自分たち側に引きつけておこうとする斉藤家との駆け引きは、見ていて面白い。
「与三さまは、拙者の”歩兵”ばかりとっておられる。」
「どうせ儂は、織田との一大事でも雑兵しか討ち取れなかったマヌケだからな。」
与三が言うと武藤はふくれた。与三が、冗談だと笑うところへ、武藤は縁側の外に視線を向けて、一段と声を落して言った。
「長井家の”香車”が来ましたぞ。」
武藤の声に与三が顔をあげると、屋敷の裏からいそいそと伝九郎がやってくるのが見える。遠目にも嬉しそうな笑みを浮かべているのがわかった。伝九郎は、両手を骨折しているので添え木で両手を縛って滑稽な姿である。合戦の時は愛馬の傷に興奮して自分の痛みにはまったく気づいていなかったようだが、伝九郎は本陣へ戻って身体を医者に診せたところ、両手は骨折するわ腰は痛めるわ、足の肉は裂けるわでとんでもない深手を負っていた。今、その痛々しい彼が縁側に伸びあがって、腰をかけ、与三に向かってニコリと笑う。
「ようやく床の上から逃亡してきたぞ。」
与三は、背筋を伸ばして口角をあげて笑みを作り、「お元気になってよかった。」と言った。伝九郎はいつも明るいが、今日は異様といえるほど明るく、積もり積もった話を矢継ぎ早にしてきた。しかし、愛馬「松波」の死については一切口にせず、立て板に水の状態で話し続けて、やがて急に照れくさそうにして「叔父上(隼人)が新しい馬をくれた。今から見に来ないか。」と言った。
「伝九郎殿がまた馬に乗れるようになってから、馬上のお姿を拝見しよう。いまはまだ養生くだされ。」と与三は首をふりつつ返事した。伝九郎は、「そうか、そうだな。この両手で出て回るのは恥ずかしいことだな。」と、笑った。その右手には何かを包んだ風呂敷が吊ってあった。それを器用に滑らせて与三の前に置く。伝九郎が何やらホッとした笑顔を見せたその帰り際に、与三は言った。
「伝九郎殿、いかに近隣であろうとも、お供もつけずに外に出てくるのは辞めた方が良いと思う。ましてや、このようにご自分から身分の低い者の元へ出向いてくるのは良ろしくない。」
すると、みるみるうちに伝九郎の表情が曇った。
与三は、誠意をこめて言ったが、いきなり距離を置こうとする与三の言葉に、伝九郎は複雑な表情をしている。やがて興奮したのか、胸の呼吸が荒くなった。
「来てはならぬというのなら…では、呼べばよいのだな。与三、私の元に見舞いに来い。」
そうして伝九郎は与三の表情を伺った。与三の心の動きを知りたくて仕方がない様子である。
「では、明日、伺いましょう。だから、まだ床で大人しくしていてくだされ。」
伝九郎は、黙ってコクリとうなずいて去って行った。伝九郎の置き土産の風呂敷包みをあけると、まんじゅうが詰まっていた。与三は、振り返って武藤や家来どもの顔を見た。みな、先ほどの会話を聞いていたので、複雑な表情をしている。与三は、まんじゅうを出した。
「みなで食ってくれ。」
と、言ったきり与三は膝を抱えて頭を落して黙りこんだ。武藤は首をふり、
「まんじゅうは、埋めまする。」と言った。

武藤は縁の下に降りて、鑓の石突きで敷き石を取り払い、土に穴を掘り、まんじゅうの入った包みをひっくり返してドカドカとそこに放りこんだ。
その時、長井隼人の小姓がいきなり与三の部屋を尋ねてきて、皆は大いに焦った。武藤は思わず、穴を開けた土の上に座りこみ、自分の尻で蓋(フタ)をしてまんじゅう破棄を隠した。
「殿が、森殿と武藤殿をお呼びです。」
「武藤もか。」
それを聞いて武藤は、部屋にかけあがった。尻にはまんじゅうの餡(アン)がベッタリだが、使者の口から自分の名が出て驚いている。与三と武藤は、小姓に伴われて隼人の元へ向かった。

 隼人の屋敷へゆけば、先日の戦で織田軍から分捕った名刀や高価な物品の数々が並んでいた。隼人は、与三と武藤を手まねきして、威勢よく言った。
「これを皆に分け与えようと思っているのだが、与三、そなたに一番に選ばせるぞ。どれでも好きなものを持って行け。外には馬もいる。馬がよいなら馬でもよい。」
与三は、思いがけぬ隼人の提案に驚いた。

第六話:「織田瓜」

  与三は部屋に並べられた品々を見回してみる。鑓か刀が欲しい。だが、あまりに高価な物を望んでも、貪欲に思われるかも知れない。かといって、折角のこの機会なのに遠慮をみせてあまりに貧相な物を選びたくもない。このような場合は隼人に選んでもらったほうが、高価な物を手に入れられる可能性がある。
「迷いまする。隼人様が見つくろってくだされ。」
「はは。そなたが何が欲しいのか判らぬ。刀か、馬か、茶器か…言うてみよ。さすれば見つくろってやろう。」
茶器とは、意外な戦利品だ。いや、意外ではない。 高貴な武将はお気に入りの茶道具を戦場に携えて、陣中に一服の茶を楽しむ。
「…茶器ですか。」
 隼人が指をさしたものは、「木瓜紋」が模様として施された漆塗りの蒔絵箱であった。
「織田家の家紋…。」
「織田一族の誰ぞの持ち物だろう。」
手提げ部分もついている。きっと中を開ければ、茶器や棗、茶杓に茶筅など茶道具ひと揃いが詰まった道具立てとなっているのだ。さて、中にはどんな茶器が入っているのか。
 与三が恍惚としてその箱を見つめていると、隼人が開けて中を見よと言った。側面を走る溝に沿って横蓋をスッと引き開ければ、見事に真っ二つに割れた茶碗がゴロリと転がった。
隼人は苦笑いをする。「残念だったな。それでは褒美にならぬ。別の物にせよ。」
それでも与三は割れた茶碗を両手ですくい上げた。その黒い茶碗は、与三の手の中で黒曜石のように鈍い光を放っている。
「私はこの茶道具一式を頂戴してもよろしいか。」
隼人は立て膝をして「それでは茶が飲めぬ。他の物を選べ。」と大いに笑った。傍に控える近習も曖昧に笑った。それでも与三は引き下がらずに「これがよい。」と言い放つ。武藤が傍ににじり寄って「馬や刀になさればよろしいのに。」と耳打ちした。
「茶碗の割れた所を金で繕いを施せば、元のように飲めるようになります。金繕いでいっそう値打ちの上がった茶器も世の中にございますれば、私はこれで。」
隼人は「そうか。そなたがそれが一番よいというのなら、それをやろう。」と了承して、与三にその茶道具を与えた。隼人は言葉を続ける。「そなたの蓮台城から戦勝祝いの使者が来て、道三を訪ねた後に私の所にも寄ってくれたので、引きとめて居るのよ。向こうの部屋に待たせているからゆるりと話でもしてゆくがよい。」そして、一息おいて静かに言った。
「与三、私は織田信秀は諦めることなく再び美濃へ入ってくると思っておる。それゆえに、尾張と美濃の国境にあるそなたの蓮台は、我々にとっても、向こうにとっても要所。しっかりと守りを固めておいてくれれば、これほど心強い事はない。」
与三は、それを聞いて「畏まってござる。」と頭を下げた。隼人はニコリと笑う。
「しかし、そうは言っても信秀も敗戦の傷をいやすまで当分は攻めてこれまい。私はその間に美濃国内の反乱分子を一気に叩いて、我らの地盤を固めておこうと考えておる。」
隼人の言う、「反乱分子」とは、斎藤道三が追放した守護大名・土岐一族になお味方し続けて斎藤道三と敵対する国衆たちのことである。
「それがよろしゅうございましょう。」

 与三と武藤は、隼人に挨拶をして席を立って出て行った。
彼らのいなくなった部屋で、隼人の近習が「あっ。」と仰天した様子でクチを押さえる。先ほどまで武藤が座を温めていた床には、ポトリポトリと赤黒い餡(あん)がくっついて残っていた。

 さて、部屋を出るなり、与三は武藤に茶道具箱を持たせたが、武藤は与三に、なぜ折角の機会にこんな割れ物を選んだのかと怒りを込めた眼で悔しそうに睨んだ。与三は気まずそうに首をふった。自分でも、はや後悔し始めているのだ。馬でも、刀でも、もっと本来自分の欲する物があったのに。
 庭の見えるひと部屋に通されれば、郷里・蓮台から参じた近松新五左衛門らが居て、与三に向かって頭を垂れる。
「おお、新五、久しいな。息災か。」
「はい。大殿も、お立さまもお元気でございます。あ、お立さまより手縫いの帷子を預かっておりますぞ。」
 近松が手持ちの荷物より包みを出して開けたとたんに、焚きしめた白檀の芳香が部屋にただよった。武藤が鼻の巣を開いてクンクンしている。包みにはお立からの手紙も入っていた。
 後で読もうと考えて与三が懐に手紙をしまおうとすれば、近松は首を振る。
「今、お読みになって、ここでお返事を書いてくだされば、私がお立さまにお届けいたしまする。」
すると与三はたちどころに顔色を変えて慌てた様子で「いやいやいやいや。それには及ばぬ。」と、首を振った。近松は、与三よりもいっそう激しく首を振った。
「おなごを何年も辛抱強く待たせておいて、恋文のひとつくらい書かねば、神罰が下りますぞ。」
与三はずっと、手紙を開かぬままに封を眺めた。多くの文字で様々な事を書き連ねてあるのがその包みを手に取るだけで判る。
「お立…。」
「実のところ、不安でたまらないご様子でした。拝見していてお気の毒に思えます。お立さまを安心させてあげてくだされ。」
「そなたが言葉で伝えてくれればよい。帰りに、何か髪飾りでも買ってやって届けてくれ。」
「何とお伝えするのですか。」
与三は、しばらく黙っていたが、大きく息をして、言った。
「…近々、儂の元へ呼び寄せる気でいるから、その心づもりでいてくれ、と。」
おおおおーっ!!と近松らの喜びの声があがる。武藤だけがびっくりした顔で、疑問を持った顔をした。
「…で、我々の住まう狭い場所のどこにお住みいただくので。」
「いや、それは…何とか別に…。探す…。」
与三が迷って目を遣った先には、茶道具立ての箱があって、織田瓜の紋が美しい金の色彩を放っている。



第七話:「与三の子が殺す」

「あーあ。この茶器は”金繕い”するはずではなかったのですかなー。」
もはや埃をかぶった与三の茶道具箱。その中に納まっている茶器の真っ二つを見て武藤が叫ぶ。与三が隼人から貰い受けた茶碗は結局、修理もせずにそのまま放置してはや数ヶ月。武藤が嫌味を効かせると、遠くから与三の答えが返ってくる。
「うるさい。お前は留守をしておけ。」
「また城下に行くのでござるか。お待ちくだされ。」
「伝九郎殿の屋敷へ行くのだ。」
武藤はその名を聞くと気が萎えた。与三は一度は距離を置こうとしたものの、結局、見舞いに通ううちに伝九郎と元の鞘に納まってしまった。伝九郎の屋敷へ行けば、彼は合戦での怪我もすっかり癒えて叔父から贈られた馬に乗って馬場を走っている。その馬を今日は見に来たのだ。
「よい馬だな。」
斎藤一門の伝九郎である。少年でも武将並みの高価な名馬を貰い受けている。
「与三、これに乗ってみるか。乗って初めてよい馬かどうかわかるものではないか。」
「いや、それは…。よい。伝九郎殿がお乗りになるのをこうやって見ております。」
馬がヒヒン、と鳴いて身体をブルルッと震わせる。伝九郎は馬首をさすった。
「与三、織田軍は今度はいつやってくるのか。今度こそは、私もまともな働きをしたい。」
織田軍…。それを耳にすると、与三は真剣な顔つきになった。与三だって、今度こそは、まともな武功にありつきたい。しかし、織田家は、現在所持している西三河方面の勢力拡大に力を注いでいる。先年より織田家の手中に納まっていた三河の安祥城の周辺から織田家に寝返る者たちが出始めたので、それを三河進出の好機と睨んでのことだ。
「噂では織田信秀は、今度は駿河の今川と事を構えるつもりだ。」
 当時は尾張・美濃・三河…と一応の国境はあったものの、あらゆる勢力が他国の一部を侵食し、または侵食され、それが日ごとに変化していくような複雑な勢力図を描いていた。美濃と尾張の国境近辺に城を置いている森家とて、斎藤家から見れば、織田家への寝返り候補とであった。ただ、今は蓮台城主・森可行の一粒種である与三が斉藤家に身を寄せているので、与三を質と見なして蓮台への警戒がおさまっている状況である。
「ふうん。お忙しい事で。」
「美濃だって同じ事でござる。美濃と隣接する国には尾張の織田だけでなく、越前の朝倉がいる。近江の浅井もいる。いや、この国内においてすらまだ斎藤家に楯つく輩も多い。相手が織田家ではなくとも、いつでも戦は起こり得ましょうぞ。」

 与三と伝九郎は、馬で共に城下町へ下りた。かつて、織田家が侵入して放火して回ったその爪痕も消えてしまうほどに、今は元通りの町の姿になりつつある。
何やらその往来に、何やら人だかりができて大いに騒いでいる。
「この伊勢神宮のお使いであるこの御師には世の行く末や人の運命を見抜く神通力がござるそうだ。それも百発百中。」
茶屋の表で腰をかけて、町人や武士までもが御師に問いかけをしていた。
「なんだ、占いか。」
厳格には占いではなかったが、与三はその類(たぐい)のものにさして興味もなく、伝九郎を招いて茶屋の奥に入って茶を注文した。
「拙者は、火事で焼けたこの店を建てるのを手伝ったのでござる。」
そう与三が話すと伝九郎は思わず笑った。
「そなたは、何でもできるのだな。」
「蓮台では田植えも手伝ったことがございまする。」
「アハッ!田植えか。」
「わっぱの頃、乗り馴れない馬に乗って誤って水田に踏み込み、親父に死ぬほど叱られて皆と一緒に田植えをさせられ申した。」
「…そなたの父御は、そのくらいのことで子を叱るのか。」
伝九郎のお供の者や武藤も一緒に腰かけていていたが、そこへ焼き餅が出された。伝九郎は、自分の餅が下々の者に出すのと同じ皿に盛られていた事にとまどっていたようだが、与三が平気そうに餅を食って「毒見いたしたぞ。」と顔をあげて笑うと、伝九郎は初めての冒険に楽しそうに微笑んで餅を食べ始めた。

「御師よ、儂らに近々何が起こるかの。」
表では武士達が御師を取り囲んでいた。だが、彼らの顔には真剣さは無く、からかい半分のような質問をしている。
「さて、そなたら三人のうち、一人は出世できる。一人は名誉の討ち死にし、もう一人は…年も越せぬ。」
「儂らのうち、一人が今年の内に死ぬというのか。それは、この中の誰のことか。」
急に武士たちも真面目な顔つきになる。
「神通力を使うのは並大抵の所業ではない。これは有り難い神の御言葉でもある。この話の先は、そなたが伊勢神宮へご寄進してからだ。」
御師が手を出して無心していた。その様子を奥で見ていた与三は「あれが本当に御師か。しかも伊勢大神宮ときた。なんと胡散臭いものよ。」と笑いつつ、二つめの餅に手を出した。
「御師の神通力とやらが嘘か誠か、それが判った数年先には、もう御師はどこにもおりませなんだ、という訳か。」伝九郎も笑った。
「ああいう手合いは大抵、不幸な予言しかせぬものよ。そしてきっと最後には、難を逃れる伊勢神宮の御札を買わされるのだ。難を逃れれば伊勢神宮のお陰。無理なら信仰心が足りなかったのだとと言えば済む。」
 御師を囲む群衆はガヤガヤと沸いて、時には御師に向かって手を合わせさせ、時には柏手を打っている。奥にいる与三達には彼らのやり取りが聞こえなくなった。ただ、再びどよめきが落ち着くと「そなたの出世の糸口は斎藤家ではなく土岐家にあり。」または「土岐家の旧臣を頼って仕官せよ。」という御師の声が垣間聞こえてきて、伝九郎は怪訝な顔つきになった。これをよく聞きとらんとして、餅を噛む口がだんだんと遅くなり、ついには動きが止まる。もう、真横で話す与三の声は聞こえていない。
 やがて御師を取り囲む群衆は「おおっ!」と、大きくはじけるような声を出して、なぜか大きく二手に割れていった。今まで人々に囲まれていた御師の姿が現れる。しかし全員が御師の次の行動をしっかりと見据えている。
 御師は、それなりに年がいって髪にも白髪が多く混じり、痩せてはいるがゆったりとした感じがし、腰には大小の刀を差していた。その御師とやらが腕をあげて、あたまをぐるりと回しつつ、ゆっくりと身体を向けたかと思うと、与三を指さした。

「え。」
餅を口に運ぼうとしていた与三は動作を止めて、きょとんとした。与三だけではない。伝九郎も、武藤も、店の中の者たちも、店の外の、御師に群がる群衆も静まり返って、やがて、全員が与三を見た。
「何だ。何の話をしていたのだ。」
与三の質問に誰も答えず、代わりに金を払った男が御師に向かって怒り始めた。
「拙者が金を払ったのだ。店の奥の者は関係ないだろう。」
それでも、御師はおかまいなしで、与三を指さし続ける。
「いや、あの者が、ここにおる者の中で最も出世できる。そなたらも出世できるが、あの者の出世とそなたらの出世とは訳が違う。」
与三も、武藤も口をきけないくらいに驚いた。
「半端な出世ではない。歴史に名を留めるほどの働きをし、やがて社(やしろ)に祀られる。」
皆がどよめいて、与三をじっくりと見た。与三は、胸で爆発した血の流れが一気に全身を駆けめぐって、自分の身体に火がついたように熱くなってゆくのを感じた。
歴史に名を留める。
男にとってそれがどれほど強く魅力的に響く言葉であろうか。その為になら、平気で命を捨てる男など、この世にあってはごまんといよう。
その一節がいま、与三のこととして発言されているのだ。しかし、与三自身は皆の手前、冗談を真に受けないぞという顔つきをして嘲り調子で御師に問いかけた。
「はん。それは名誉なことだが、どうしてそんな事がわかる。」
その表情とはうって変わり、与三の体内では心臓がドクドクと脈打ってありえないほどに心拍数をあげている。
「そなた自身がそう信じておるからだ。その心が読める。」
「そう信じておるからとは一体どういうことだ。たとえ拙者が何かを信じていたとしても、それが真(まこと)になるとは限らぬではないか。」
「真になる。」
伝九郎は、とっさに与三の腕をつかんだが、与三は伝九郎の手を払いのけて御師に近づいた。
この御師は大事な、何かを知っている___。
与三がこの世で最も知りたい事を、知っている____。

御師はニヤリと笑って手を出した。その話を続けて欲しいなら、金をくれというのだ。与三は思考が飛んだように頭が空白になり、操られるように金子を取り出して金を渡した。
「しかし先ほど神通力を馬鹿にしたゆえ、神罰にもっともっと面白い事を教えてやろう。」
御師は、与三の耳元に自分の顔を近づけた。与三、以外には聞こえぬ声でつぶやいた。

「そなたは主人の為に死ぬが、そなたの子がその主人を殺す。
そなたは主人に従い何万もの人を殺めるが、そなたの妻はその主人に背いて何百万もの人を助ける。」

予言特有のどうにでも解釈できそうな曖昧な謎かけで、与三を煙に巻く気かも知れない。だが、不思議なことに与三の心の奥底で一気に何かと何かが符号して重なった。まだ来ぬ未来のことであるはずなのに、与三はこの話を自分でも知っていた気がした。そして、それはその場で気絶してしまいそうになるほどの強い衝撃に変わった。

 店の奥では伝九郎が腰をかけたまま眉間にしわを寄せ、殺意むき出しの顔をして御師を睨みあげている。御師はそれに気づいて、威厳と風格を見せてゆったりとした口調で言った。
「そこなる少年、そこもとにはまた奇怪な相が出ておる。その身の栄華に甘んじたままでいては、あまりにも憐れな末路を迎えることになろう。」
群衆の中の武士が少年の顔を見て、それが長井隼人の甥と知るなり止めに入る。
「よしてくだされ、あのお方は斉藤家一門のお方じゃ。」
御師は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに険しい表情に変わって、伝九郎を凝視した。
「そなたでは正にも邪にもなれぬ。今ならまだ引き返せる。身内と同じ轍を踏まれますな。」
伝九郎は黙って腰かけたままであったが、左右の供に「あやつを殴り殺せ。」とひとこと言えば、お供の二人が御師に走り寄って飛びかかってゆく。
「やめよ。我に一指でも触れるならば神罰が下るぞ。」
御師を名乗るその男はそう叫んで両手を開いたが、伝九郎のお供は構わずに御師を押し倒して殴り始めた。群衆は驚いて後ずさりを始める。与三はと言えば、まるで時がとまったように動けなくなってその場につっ立っていた。
しかし、自分の傍らで人が殴りつけられているのがようやく視界と耳に入って我に返り、慌てて止めに入る。
「やめ!やめぃ!たかが一人の男の戯言ではないか。」
そうやって御師を助けあげると、伝九郎は「こいつ、私に対して不吉な事を言った!」と、大声で反論して刀を抜きかけてズカズカと近づいてくる。
与三は「私はもっとひどい事を言われた。だが、戯言じゃ!」と、言葉でもって伝九郎を制止しようとした。御師は口を血だらけにして青臭い息を吐きながら与三の腕に取りすがった。
「私の連れの者どもが、間もなくここに戻ってくる、そやつらが儂の身元を証言してくれるはずじゃ。」
だが、伝九郎は、余計に腹を立て、抜いた刀を御師に突きつけた。
「そなた御師ではなかろう、誰ぞ。神通力などと申して人の心を惑わし、果ては斎藤家を中傷した。土岐家の手の者か。正直に答えねばこのまま咽元をザクリとやるぞ。」
そう言っている傍から伝九郎は勢いあまって男の首を刺し貫いていた。与三の腕の中で、御師と名乗った男は事切れて、ズシリと重くなった。
「おい!伝九郎殿!何てことを。」
「この刀…よく切れるな。こやつの肌に触れる感触も無く刺し貫いたぞ。」
伝九郎は自分の刀の切れ味に驚いて感心していた。与三はガックリとして首を振った。
先ほどまで御師の言葉に聞き入っていた群衆が不安気に様子を見ていたが、伝九郎は何食わぬ顔をして皆に言い放った。
「己の死も見通せぬこの男の言葉など信じるに値せぬ。よいな。」


与三は、自分自身に放たれた言葉に対し、信じるべきか、信じないべきか、迷っていた。

『そなたは主人の為に死ぬが、そなたの子がその主人を殺す。
そなたは主人に従い何万もの人を殺めるが、
そなたの妻はその主人に背いて何百万もの人を助ける。』

与三は怖くてこの言葉を誰にも言わなかった。
心の片隅で、人に未来を見通す力などあってよいはずがないと思いながらも、しかし、この言葉だけは自分の中でいつまでも生々しく響いていた。

「ならば私が長井隼人、あるいは斎藤道三の為に死に、まだ見ぬわが子が彼を殺すというのか。本当に、そのようなことがこの先、起こるのであろうか___。」

第八話:「冥慮」

 
「高名な占い師を三人呼んである。そなたも会わぬか。」
伝九郎が騒ぎたててソワソワとした態度を隠せない様子であった。
近頃、この男はどっぷりと占いにはまっている。
「先日の事をお気になさっておられるのか。世の中はなるようにしかならぬのだから、お気になさるでない。それに、己以上に、他人が己の事など判ろうはずもない。」
 与三は伝九郎をなだめながらも、心の中では「あのような事を言われてしまえば、それは後味も悪かろう。ましてや隣にいた儂が歴史に名を残すと言われた後なら、なおさら。」と思っていた。

『あまりにも憐れな末路を迎えることになろう』

 伝九郎は、およそ世間知らずで無頓着な一方で非常に繊細な一面を持ち合わせていた。そのうちの一つに、裏切られるのを非常に恐れ、常に周囲の人を警戒するというものがあった。
それは、与三にも理解できる気がする。斎藤道三も、長井伝九郎も、伝九郎も本来は守護代「斎藤」でもその重臣の「長井」を名乗れる立場でもない。彼ら一族は、長井家に家臣として入り込んで裏切りに裏切りを重ねてのしあがり、名門「斎藤家」と「長井家」の名跡を乗っ取ってしまったものである。更には、主君たる守護・土岐頼芸を美濃から追放してしまった。それをこの多感な少年は間近で見てきている。裏切りの末に地位を獲得した後は、次に自分が裏切られる番がやってくるという恐れがつきまとうのは当然なことかもしれない。外見はあっけらかんとしたこの少年にも、人を容易く信用してはならないという心の闇が根底にあり、周りの者にも距離を置いている雰囲気はあった。それでも、なぜか森与三のことはしつこいくらいに執着した。この執着心が何によるものなのかを伝九郎自身がはっきり理解するのは、まだずっと先のことであった。

「与三、なぁ、そなたも観てもらおう。」
与三への予言「歴史に名を残す」というものも、伝九郎は誰かに否定してもらいたいのだ___。与三は、何となくそう感じた。
「しかし拙者はこの後、隼人様に呼ばれておりまする。」
与三が隼人に呼ばれ、隼人の元へ行かねばならぬというのは本当である。伝九郎は諦めざるを得なかった。
「伝九郎殿。拙者はいざという時は、生身の楯になってでも伝九郎殿をお守りいたす。憐れな末路などあり得ない。本当に、お気になさいますな。」 そう言い残して、与三はその場を去った。

 やがて、伝九郎の元に占い師が三人やってきた。伝九郎は「うむ。」と、向い合わせに座らせて、昨日の出来事は告げず、あからさまに自分の最期を占わせる。
陰陽師である男は「大事な方に見送られつつ安らかで幸福ご最後です。」 と自信満々に答えた。
加持祈祷を生業とする神人の一人は「幸福で、ご納得のゆく美しいご最後です。」 と、やはり自信満々に答えた。
だが、最後の一人は、言葉をつまらせた。伝九郎が「どんな悪いことでも言ってくれ。それで罰したりはせぬ。」と頼みこむと、やがて最後の占い師は気まずそうに口を開いた。
「裏切りに…ご用心くだされ。」
伝九郎はそれを聞いて「やはりそうか!」と声を荒げて、身体を乗り出してその詳細を矢継ぎ早に尋ねた。
「私は誰かの裏切りによって命を落とすのだな。昨日、ある男に”あまりにも憐れな末路”と言われたが、その通りなのか。それを逃れる手立てはあるのか。」
毘沙門天からのお告げを聞けると言う占い師は、手にしていた数珠を揉み始めて首を振った。
「そのような酷い事を言われたのですか。お可哀そうに。ただ、運命というものは宿命とは違うもので、変えられるかと存じます。」
「そうか、手立てはあるのか。それで私は一体、誰に裏切られるのだ。」
「それが、私めにはそこまで詳しくは見通せませぬ。ただ、”裏切りに用心せよ”との文言だけが天から私に降ってきたのみでございます。あなた様が誰に裏切られるかを知れば、あなた様は理由もなくその者を遠ざけ、恨みを買い、予言が当たることにもつながりましょう。それゆえに、裏切り者が誰かとは、天からのお告げがないのでしょう。ただ、周りの者を愛して慈しめば運命は覆りまする。」
「周りを愛して、慈しむ…この長井家に籍を置く私には何と遠い言葉だろう。」占い師から顔をそむけ、独り言のように伝九郎は言った。

 
 稲葉山の麓の馬場では、兵の鍛錬が行われていた。今日の昼より不意打ちにその集合を告げる太鼓の音が城下に響くと、各家から武器を持った者たちが、城や城下から一斉に集まった。与三は隼人と一緒に行動していたので、最初から今日の事を知っていてこの場にいた。占い師を招いていたはずの伝九郎も馬で走りこんできた。集合に速い者はいつも決まっていて、後はまとまりなくパラパラと集まってくる。
「遅い、これが本当の合戦なら如何いたすのだ。」
隼人は彼らをいつもより激しく叱咤した。なぜなら、たまたま今日は、斎藤道三までもが馬場に視察に来ていたのだ。道三は、これから続くであろう国内の粛清に向けて、自らが皆の前に姿を現して、このまま士気を高めて次の合戦につなげたいと思っている。

皆、日ごろ間近では目に出来ぬ道三の姿を認めて仰天した。
 斎藤道三と長井隼人は全員を見渡せる場所に床几に置いて腰をかけて、その鍛錬の様子を伺った。
太鼓の打ち方を聞き分け、兵士らは陣形を変えてゆく。
隼人の傍には与三が控えて立っている。隼人が重臣達の若い息子たちを呼びよせた。その中には伝九郎もいた。隼人は、「与三。」と声をかける。
「与三、若い者たちは皆そなたを慕っている。いずれは兵士らを率いて戦うこの者たちに兵をいかに動かすか、陣形をいかに整えればよいのかを教えてやってくれ。」
動作を指示する太鼓の音が馬場いっぱいに鳴り響く。その音のたびに、集団が動く。
「進軍の合図」、「退却の合図」、「総攻めの合図」。
奥で合図の確認がなされる中、少年たちは一角に集まり、いっせいに与三の方を見た。ドンドンと太鼓の音が速度を増して行く。太鼓に合わせて陣形が変わってゆく。与三は太鼓に負けぬ大きな声で語り始めた。
「合戦は敵との矢合わせが終われば、いよいよ敵に近づき鑓合わせとなり申す。兵の前進の際には平押しをする。兵を横に一列に並べて前進させることにより敵にひるんで敗走する兵士が少なくなる。」
兵士の作る陣形が真ん中で折れて鳥の羽のように広がった。
「あれが鶴翼(かくよく)の陣。中央の本陣が奥へ入り、左右の兵を前に押し出す形。味方の数が敵にまされば、この陣を用いて敵を包囲する。本陣が前線に出て、左右が奥に引く形もある。これは大将が真っ先に敵に当たることとなる。士気を高める為に用いる。」
兵士らの陣形が三角を形作ると、与三は引き続き説明を加えた。
「あれが魚鱗の陣。大がかりな戦では、味方の繰引きをしなくてはならぬ。前方で戦い疲れた兵士らをうまく引き揚げさせ、間をあけずに後方の兵士を前線に押し出す。兵を指揮するものはこの間合いを見計らい、かつ、うまく導かねばならぬのでござる。口では易いことなれど、相手と戦う中では難しい。しかし繰引きを続けて長く戦うには、この魚鱗の陣がもっとも有効にござる。」
与三は、繰引きの指揮を披露せんと魚鱗の陣に近づいた。
その時である、若い女が数名、黄色い声をあげて馬場に走ってきた。見張りがその女の者に走り寄ると、女の話に驚いたのか、見張りも女も一緒に長井隼人の元に走った。何か起こったのか。しかし、報告を受けた隼人はポカンとしている。隼人は首を振りながら斎藤道三の元へ近づいた。
 腰刀をギゥと握り締めつつ真剣な面持ちで話を聴いた道三も、ポカンとした。しかし、次の瞬間には可笑しくてたまらないという感じで大笑いした。
「阿呆よのう。あやつも悪いところに出くわしたの。こちらはこのまま用意周到に出撃だ。今日こそは息の根を止めてくれよう!」
何が起こったのか、まだ情報をもらえぬ皆が推量しながらざわめいた。道三も、隼人も甲冑を着けぬまま馬に乗り、皆にそのまま出軍が命じられた。
「今から本当の合戦らしいぞ。」
「軍勢が城下に入り込んだらしいぞ。」
ざわめきの中で隼人が与三を呼びつける。皮肉めいた笑いをして与三に告げた。
「信長が少数の仲間を連れだってまたこの近くで悪さをしているそうだ。」
「え…。」
与三もポカンとしてしまった。
先日、信長の父・織田信秀を完膚なきまでに叩きのめした矢先である。本人は当然、息子も涙にくれ、歯を食いしばり、合戦で失った膨大な損失を補いつつ、いつかまた美濃へ侵攻することを夢見て兵を鍛えなおし、一方では敗戦により生じた国内の混乱を鎮める収めるために尽力する______そのためにおとなしく自城にひっこんでいるはずの時期なのだ。

隼人は確実に与三を皮肉って言った。
「そなた、聞いた話では盛大な出世をいたす運命だとか。まずは織田信長を血祭にあげて名をあげよ。」

与三の人生を変える運命の人との出会いが、もう、そこまで迫っていた。
 

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うきき

Author:うきき
森一族の小説を書こうとしています。

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