小説『森一族』

戦国時代を彗星の如くに生きた森一族の小説です。 SINCE:2008/9/20

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第二十話:「父子(ふし)にあらねど」

 森与三は、その夜、斎藤道三の元にあって長井隼人の状況もわからぬままに彼に向けての書状を認めていた。どうにかこの釈明の手紙を関城にいる隼人に届けねばならぬ。夜に明かりを灯してほの暗い部屋で、黙考しながら筆を走らせていた。
 与三は、道三に庶務をする仮部屋を与えられた。美濃と尾張の国境・蓮台村の森家として、斎藤家の娘を無事に尾張に送り届けるようその手伝いを命じられた。
しかし、それは与三が従う長井隼人の心に逆らうことである。こうなった今は、どうにか道三と隼人が折り合いのつくように努めねばならない。
 この斎藤道三に与えられた新たな部屋の空間は、隼人の屋敷の部屋とは比較にならないくらいに高級感に満ち、人が住むにふさわしい広がりがある。部屋でどれほど身体を伸ばしても、まだまだ空間が余る。隼人には申し訳ないが、この部屋に居る事が、何と自分らしいと思えることか。以前は、狭い場所に押し込められたゆえに、気持ちまで矮小になっていたのかも知れない。だから、夜な夜な自分の身の上を嘆いていたのかも知れない。ただ気にくわないのは、その隣の部屋には、またあの余語盛種も移ってきたということ、尾張に詳しい彼もまた、与三と同じ任務を道三から受け負ったということ。

 思考に身を任せていたその時、部屋の外から「森どの…」と、押し殺したような声がしたような気がした。与三の筆が止まる。板戸を指先で叩くような、そこにガリガリと爪を立てるような音がする。
「次郎でございます、どうか中へ。」
与三が「開けろ。」とアゴをあげれば、すかさず武藤が部屋の板戸を開く。そこには、見るも痛々しく血に染まった次郎・小次郎兄弟がいた。

次郎が担ぎあげた小次郎の腹から血が出ている。
「おい、腹を切ったのか。」
次郎は泣きそうになって頷く。彼らは道三より小姓ばかりの大部屋に移されたはずであった。与三は息も切れ切れで気絶寸前の小次郎を次郎から引き取って抱えこんで部屋に入れた。
 横たえた小次郎はただ痛みに歯を立てうなる。血糊のべったりとついた着物を開いて腹を見ようとしたところ、ドッと血があふれ出てくる。与三は反射的に小次郎の着物で傷口を強く押さえつけた。小次郎はその瞬間に口から泡を吹き出し、さらに歯をくいしばってガタガタと震え始めた。
その振動が与三の手に伝わってきて与三を恐怖させる。
切腹した者の治療など介錯してやることしか判らぬ、どうすればよいのだ。
「五郎、医師(くすし)を探して連れて来い。」武藤にそう告げれば、武藤は動揺する。
「ど、どこへ行けばよいのでござろうか。儂ら戦場以外で医師に世話になることなどござらぬゆえ、知ってる者がおりませぬ。」
「死らん。誰かに尋ねて早く呼べ。早くせんかっ!」
兄の次郎は涙を流して両膝をついて小次郎を覗きこみ、「小次郎、死なないでおくれ。後生だから死なないでおくれ。」と言って泣く。
その騒ぎに隣から余語盛種とその家来らがやってきた。
余語は暗がりで床に落ちた血を踏んでズルリと足をすべらせそうになって膝をしたたかに床に打ちつけた。
正面を見ると、薄ら灯りの中、血まみれで横たわる小次郎の姿が視界に現れた。
「なんだ、これは!」と仰天するが、与三が怪我人の腹を押さえつけているのを見ると、次の瞬間には家来に「湯を沸かせ。」、「薬と、ありったけの布を持って参れ。」と命じて与三の身体を押しのけるように割って入って小次郎を見た。
「森どの、手を離されよ。そんなに傷口を押さえつけるものでない。」と小十郎の血に濡れた与三の手を押しのけた。与三は血を見て興奮気味であるが、余語は冷静に懐から布を出して小次郎の腹に当てる。
「ああ…血の割には傷は浅い。腹の上面一枚を浅く切っただけだ。臓腑まで届いておらぬ。」
そう言って、小次郎の帯を解いて傷のある腹に巻き直した。
次郎が「助かるのか。」と尋ねれば、余語は次郎を見た。
「それは知らぬ。…そなたまで怪我しておらぬか。」
「私はよい。それよりも弟をお頼み申す。」
次郎は右手に深い傷を負って血を垂れ流しにしていた。弟の小次郎が切腹しようとするのを目撃して、慌てて小次郎が手にしていた白刃を握りこんで切腹を止めようとしたのだろう。その次郎は、腹を切ろうとした弟を案じるあまりに、余語にすべてを任せて祈るような視線を向けた。もはやその視界に与三はいない。
「弟御のことは後は医師に診せるしかない。そなたの右手のほうが深手だ。ここを強く押さえておかれよ。」と、余語は言い、次郎に右脇の付け根を押さえさせ、家来が隣から布や薬を持ってくると余語が布を取って次郎の腕をしばって止血し始めた。

与三は何も手出しできずに、ただそれを眺めて呼吸していた。
小次郎は、きっと、長井隼人を裏切ったという良心の呵責に堪えきれずに腹を切ろうとしたに違いない。

 そのうち、屋敷の者たちが異変に気づいて鑓や刀を持って部屋に寄って来て何事だと怒った。
余語は怪我人がいると軽く説明すると、きっと森どのが朝に事情を申し上げるはず、と言って自分の部屋に戻って行こうとした。
与三は慌てて余語を引きとめる。
「余語どの…医師が参るまでこの子らについて居てくれぬか。」
「もう、これ以上の事は拙者にも判らぬ。」
と余語が言い返しても、与三はブンブンと首をふって頼みこんだ。
「頼む。彼らに何かあっては隼人どのに申し訳がたたぬ。」
余語は黙って次郎に寄って座り、再び右手に手当を続けた。
次郎の細くて白い少年の腕がまくりあげた袖からのび、その先にある小さな手は余語の大きくて褐色の手につかまれていた。
次郎は自分の手当の時にも、弟のことを気にしてずっと見ていたが、右手から多くの血を流し過ぎたせいで、やがて意識を失うように昏倒した。
また、屋敷の者たちがやってきて医師を連れてきた。
そして「森殿、明朝、この一件をご報告なさるように。」と命じて去った。
医師が傷口を見ると、早くもその頃には小次郎の腹の血は止まっていた。彼の傷は浅く、むしろ、次郎の右手のほうがより酷いと言い、痛みを止める薬を与えた。

 武藤が何とも怪しげな医師を引っ張って来たのは二刻過ぎてからだったが、医師があまりに怪しげで二人とも屋敷の門衛に追い払われた。
与三は、血の臭う部屋の中、苦々しい思いでこの兄弟を見つめて夜を過ごした。命の心配はないというのに、今は計り知れぬ心配と不安で胸が張り裂けそうでどうしようもなかった。
「そうか…儂も、本来ならこの年頃の子の父となっていてもおかしくない年なのだ。」
そう思うと、次郎・小次郎に対して我が子を思う父のような、何とも複雑な気持ちが湧いてきた。
「儂は最初の妻とも他の女達との間にもまったく子ができなかった。お立とはどうなるか分からぬが、今のこの二人との巡り合わせは何かの縁かもしれぬ。」
とにかく、次郎・小次郎がこういうことになったのには責任がある。この二人のことは、儂が考えて何とかせねばなるまい。
与三はやがて、自身も疲れを感じ、少年たちに添い寝して川の字で横たわっていつの間にか眠りこんだ。

 次に与三が目覚めた瞬間はもう朝であった。看病の身を思い出して焦って起きあがった。
ただ、次郎一人が起きていて、小次郎の枕元に座っていた。与三が背後から見る彼の背中は微動だにしない。
与三が寄って行くと、次郎はひどく落ち着き払った表情をしていた。昨日、泣くばかりでどうにもならないほど華奢に見えた少年が、しっかりと、どっしりとして見えた。
「小次郎が目覚めれば、切腹をやりそこなったことを恥じて再び自害しようとするであろう。こやつは世にあるたった一人の肉親、失ってはならないと思い隼人様を裏切ってまでしてここへ来たのに、こんなことなら…。」
その言葉に与三はしばし黙りこんだが、次郎の隣に座って言った。
「次郎どの、道三の元に儂らがいてこそ長井家の役に立てることもあるかも知れぬ、それを共に考えよう。そして、我らのその意志をどうにかして隼人殿にお伝えしよう。」
その言葉に次郎は黙ってうなずいた。
与三は、用を足しに部屋を出た。その時ふと余語の事を思い出して、礼を言わねばと思い出し、余語のいる部屋の前で足を止めた。
「部屋の中で物音がせぬ。まだ寝ているのであろうか。」と与三がためらっていた時に、部屋の戸が開いて長身の余語が現れた。
「起きておったか。」
与三がそう一言言ったまま、仁王立ちして静止する二人の間に沈黙が流れた。
「昨日はお蔭で助かった…。礼を申す。」
と、与三は重い唇をこじ開けてたどたどしく謝意を言葉にした。余語はそれを受けてコクリと頷いた。聴きたがりの余語が昨夜の一件について何も事情を尋ねてこないのは、はや推量で一人何らかの結論にたどり着いたのかも知れない。
それはどうでもよいというように、余語は大きく息を吸った。
「森どののことで、今、思い出したことがある。」
「何であろうか。」

 余語は息を吸い、胸をパンパンにして息を止めたかと思うと、与三の頬を拳で思いっきり殴りつけた。与三は一瞬気が遠のき、勢いよくガツンと壁に叩きつけられた。
余語は、それでもすっきりとしないような顔をしたまま、廊下を歩いて去って行った。
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第二十一話:「隼人慕わしや」

 雨がほとばしるように降る。
与三が髭を剃り、道三の元へ出かける支度をしているところへ、次郎がやってきた。
「次郎どの、手の傷はよいのか。」
 次郎は与三の問いかけを聴いているのかいないのか、そのままフンフンと小刻みに頷いて、与三の前に腰を下ろした。まるで小リスのように鼻をヒクヒクさせて与三を覗きこみ、口角をあげて嬉しそうである。やがてエヘヘ、と笑った。
「森どの、良い報せじゃ。去年、烏峰城の斎藤大納言殿が殺されたであろう。その烏峰城を道三公がそのまま隼人様にお譲りになられたのだ。」
それを聞いて、与三は息を呑み、背を後ろに反らして膝に拳を置いてうなった。
「あ、ああ、大納言殿…。それは久々利城の土岐悪五郎の館に招かれて殺害されたあの男か。」
次郎はコクリ、コクリと嬉しそうに頷く。
「そう。関城に加えて、烏峰城も隼人様のものになったのだ、道三公は隼人様の事をお怒りになってはいらっしゃらないと知って心の底から安心した…。隼人様も烏峰城を受け取られたのだ、お二人は仲直りできたということだよ。」
 斎藤道三は、東美濃の押さえとして養子の斎藤大納言正義を烏峰城に置いた。しかし彼は道三の意に反してふるまい続け、最終的には彼を憎む久々利城の土岐悪五郎に謀殺されてあっけなく断絶してしまった。その遺領と権益とをそのまま道三の弟の長井隼人が継承するというのだ。関城から東美濃まで。美濃国内において斎藤道三の弟・長井隼人は何という広大な領土を手に入れることになるのか。
「隼人殿のご器量ならば東美濃の土豪らを押さえて治めることも問題ではなかろうな。」
与三が思わずつぶやいた言葉に次郎はますます喜んだ。
「やはり道三公は、他の子よりも隼人様のことを可愛いと思っていらっしゃるに違いない。」
次郎は自らに何度も頷く。
「え…。」
急に外の雨の音が与三の耳からかき消え、静かな世界に入りこんだ___。
今の違和感は何であろう。次郎の言葉の何かが妙に心にひっかかった。
「隼人様は織田家との和睦もご了承なさった。森どの、ご安心して任務をまっとうなさってくだされ。」
言いたい事を言い終えて、次郎は飛ぶように部屋を去ってゆく。
「おい、次郎どの!小次郎の様子はどうなのだ!」
与三が後ろから叫ぶのも聞かず、次郎の姿はあっと言う間に無くなった。与三は武藤とともに顔を合わせて首をかしげて笑う。
「やんちゃですなぁ。」
与三は立ち上がって刀の大小を差した。
「それにしても、隼人が二城の主か…。」
 障子を開けると雨音が直接大きく耳に響いてくる。天から糸のように落ちてくる雨を見上げていると、与三の胸はうずく。
今、自分が長井隼人の傍に居ないことへの焦りなのか。
それとも、長井隼人が今さらに新たな城を手に入れた事に対する嫉妬なのか。
長井隼人も、元々は油売りの家の出。森家以上に何も持たざる者であったはずなのに、それが遠く与三を追い越して、どんどん巨大な存在として膨らんでゆく。

わかっている。与三は、隼人の事を好んでいるし、慕ってもいるし、案じてもいるし、嫉妬してもいるのだ。

「…隼人殿も、伝九郎殿も書状をよこしても何も申してこないでござるな。」
武藤が背後でつぶやく。
「…皆、広間に集まり始める頃だろう。遅れてはいかん。行こう。」
障子をピシャンと閉めた。

 道三の娘が織田信長の元に嫁ぐ準備が日に日に慌ただしくなってゆく。尾張と美濃の境である蓮台村出身の与三は、両国の些細な事情にも詳しいが故に、自然、斎藤家と織田家を橋渡しする役になってしまった。
 今日は婚姻に携わる人たちとの顔合わせをして、道三の娘を尾張に送り出す手筈を確認し合う。
与三は複雑な気持ちであった。戦場での再会を願った織田信長の婚儀を面倒見ることになろうとは、この世とは何と不思議なものだろう。しかし、与三は、今は、ただ長井隼人の事が気になって心が晴れない。彼からは、直接何の言葉も聞けていない。

「林新右衛門でござる。」
広間で一番に待っていたのは、林新右衛門という男であった。新右衛門のほうから、与三の隣に座って近づいてきた。
この林新右衛門は道三の娘・帰蝶の輿入れに随行して、そのまま家族そろって尾張の信長に仕える事になっている。そして彼の話によれば、この和睦をより堅固なものにするために、帰蝶と信長の婚姻と時を重ねて美濃と尾張間で他にも数組の縁談が取り交わされることになったという。
「それゆえ拙者の娘も、尾張で信長殿のご家来との縁談を用意していただくとのことで、いやはやこの和睦が末永く続いてもらわねば困りまするな。」
そう語る林新右衛門は、与三よりも少々年上に見える。誰の前にいても、いや、誰もいなくても長時間姿勢を全く崩さず、動く時も常に優雅で品の良い男だ。新右衛門があれこれと語りながら袖を動かすたびに与三の鼻先に、炊きこめた柔らかい香の匂いが漂ってくる。
「尾張に引っ越す用意もせねばならぬのですが、娘が尾張でどのような男と一緒にさせられるのか、親としてはそればかりが気になっておりまする。森殿でござったか、その件について何か伺っておりませぬか。」
与三にはどうでもよい話であったが、相槌を打ったり、首を振ったりした。それに調子づいて新右衛門は娘への心配を淡々と話し続けた。
「森どののように立派な方の元に嫁げればよいのですが。」
「はは。そこもとの娘ならばもっとよい家に嫁がせてもらえよう。」
与三は笑いでごまかした。
「よいお導きがあればよいのですが…。」
新右衛門は、そのまま何も言わずにじっと与三の顔を見つめる。何なんだ、このオヤジはと、与三は気持ち悪くなって、笑いを浮かべながら自然に視線をそらした。
 その部屋に余語が入ってきた。まだ、他に人はおらぬのだから離れて座ればよいものを、わざわざ与三の隣に座った。
 林新右衛門は、長身で体格のよく、風貌清々しき余語になかば見とれつつその姿を眺めた。余語のほうは与三以外には気にも留めず、与三の肩をつついた。
「そなた、知っておるか。隼人殿はこのたびご加増されて、烏峰城を貰ったそうじゃないか。」
「知っておる。」
「もう知っておるのか、さすがに早いの。では、隼人殿は烏峰城には誰を置くのだ。」
与三はもうずっと隼人からは何の連絡ももらえていない。隼人が今、与三をどう思っているのかすら分からない状態だ。激しく憎まれているかも知れない。それすら知らぬものを、隼人が烏峰城に誰を置くなぞ知る由もない。
「そなたには教えられぬ。」
この与三の返事に余語は舌打ちした。その二人の横で、林新右衛門がキラキラとした瞳で与三と余語の二人を見つめている。
「このたび、帰蝶様とともに尾張に行くことになった林新右衛門でござる。お見知り置きを。」
「あ…ああ、余語盛種でござる。よろしくお願い申し上げる。」
余語は両手のこぶしを床に置いて、与三を間に挟んだまま新右衛門と挨拶を交わした。林新右衛門の袖の中から数珠が降ってきて床にジャランと落ちてきた。
「あいすみませぬ。」
新右衛門は数珠を拾い上げてそれを懐に入れる。余語は冷淡にペコリとお辞儀して、そしてまた、与三に身体を向き直して言った。
「織田信秀は和睦の証しに美濃を威嚇してきた城を次々に壊し始めた。本当にこれは和睦のようだな。」 
「え。そうなのか。」
与三は思わずそう言ってみたが、自分の知らぬ話を余語からもたらされるのは癪に障る。与三は静かな面持ちで言い直した。
「誠の和睦であるからこそ、こうして互いの縁談も成立するのであろう。」
余語は、その言葉にあきれかえった顔をし、次にため息をついて、与三の肩を手の甲でドンと叩いてそのままそっぽを向いた。
 その、余語が顔をそむけた先に、数珠を握りしめた女が物音もさせずに暗い顔で立っていた。自分たちの他には誰もいなかったはずの広間にいきなり女が立ちつくしていたので、余語は驚いて身体をギクリとさせた。

第二十二話:「うつろひ菊」

 いつの間にか部屋に女が静かにこの部屋の中にいる___。
余語の驚きに反応して、与三と新右衛門が首を向けると、うつろい菊の着物を着た女が立っていた。
うつろい菊___茶色がかった深い紫の着物だ。恐らくは年配の女が着て初めてしっくりいくような色であろう。しかしそれを押し着せられたかのように身にまとった女は、着物の色にはそぐわない13、4歳の年頃の若い娘であった。娘は顔の両方に垂れる重たげな髪と髪の隙間から両眼を覗かせ、眉間にあらん限りの皺を寄せて、下唇を噛みしめ、細い指に強く数珠を握りこみ、そのまま新右衛門のそばに寄って行った。
「英、他の女子達とはぐれたのか。姫様方と女子達で集まって話をしていたのではないのか。」
新右衛門がその娘の顔を覗きこむ。娘はただ声も出さず、ここに居たくはないように拒絶の表情をみせた。
 与三と余語が口をポカンと開けていると、新右衛門はそれに気づいて肩をすくめ「娘の英でござる。」と紹介した。
「英、このたび我らを尾張へお連れ下さる方々じゃ。ご挨拶いたせよ。」
新右衛門は英というその娘の腕を引いて座らせ、背中を叩く。
英は父親に促されて二人の男の顔を見たが、何の興味もなさそうに視線を落とし、三つ指を立て浅く頭を下げた。
「先に家に帰ります。」
英は蚊の鳴くような声で父親にそう言う。
父親の新右衛門が「何かあったのか。」と尋ねても逃げるように廊下に出て行った。新右衛門は隣の控えの間にいる家来を読んで「善四郎、英を家まで送り届けてくれ。」と言えば、善四郎なる男はすぐに廊下に出て行った。

 森与三も、余語盛種も、人並み以上によい男ぶりの者達である。十代の女が彼らを見ればたいていは頬を赤らめるか、うっとりとした表情をするか、はにかむか、それとも緊張のあまりに声もでないか、そのいづれかであるのに、彼女はそのどれでもなかった。初々しさというものが微塵もない今の娘の態度に二人は心中、愕然としていた。
あれで十代の娘なのか。
 新右衛門は身体を二人に向きなおして「不躾な娘で申し訳ない。」と詫びる。
「本日は、姫様の婚礼の調度品を見るために娘も連れてきたのでござる。拙者は先に退出してきたのでござるが、その後で姫様に叱られるような事でもあったのや知れませぬ。」と新右衛門は説明して首をかしげた。


 そこへ、道三の重臣衆や家老がどっと部屋に入ってきた。
与三は、ハッとする。その中に、長井隼人がいるかも知れないと思ってしまったからだ。思わず顔を見上げて隼人を探した。しかし、どの顔も、どの顔も、待望の隼人ではない。しまいには、与三を嫌う忌々しい家老連中の顔にぶつかった。与三は目を逸らす。家老も「フン!」と鼻から息を抜いて、目を逸らす。しかし、余語に対しては親しげな笑顔をふりまいた。
「おお、余語どのも見えておったか。もっと前へ参られよ。」
「いえ、拙者はここで。」
与三はまったく意識していなかったが、余語は隣の位置といえど与三の下座を選んで座っている。与三はそのことに今、気づいた。家老どもはその序列を快く思っていないのだ。
「それはならぬ、余語どの、そなたがそこまで下座に行くことはない。」と、家老どもが手まねきする。ここにいる誰もが、その言葉は余語への親切というよりも、むしろ与三への当てつけというのははっきりと分かっていた。余語は固持し続け、それでも家老たちは手招きを続ける。本当に面倒臭い奴らだ。「行けよ。」と、ボツリと余語だけにつぶやくと、余語は頷いて与三より上座に席を移った。

 話は夕刻にまで到った。与三は武藤を連れて町まで出て行った。酒屋に入って軒先の椅子に腰かけ武藤と飲む。たった一口酒を飲んだだけで前のめりになり「はぁ、戦がしたい。」と与三がぼやいたので、「は?」と武藤が立ちあがって上から与三を覗きこむ。
「戦がしてぇんだよ。」と、今度は背を反らした。
「また何で。」
このどうしようもない鬱憤といらつきを発散させるために、ただ生き死に事しか考えずに合戦に身を投じたかった。長井隼人はおろか、伝九郎までもが何の便りもよこしてくれない。今、自分はどのようにみなされているのか、気になってどうしようもない。

表通りから、辻説法の声がする。
「この美濃はそもそも土岐氏が守護として土地である。今、あの稲葉山にあるのは偽りの城。そしてその城におるのは偽りの城主。長井家を乗っ取り、ついには斎藤家まで乗っ取った輩。」
それを肩越しに聞きつつ、与三は肩コリをほぐすように首を回した。
「またかよ。…本当に懲りぬな。よほど切られたいのだな。」
与三が杯をグィと飲みほすと、武藤が身を乗り出して、与三の杯に酒を注ぐ。
「そういえば、以前、予見をしてもらいましたなぁ。」
「予見…。ああ。」

”歴史に名を留めるほどの働きをし、やがて社(やしろ)に祀られる。”

神通力とやらで、御師と語るその男が、与三をそう見通した。
「…いっこうにその気配がないのう。その言葉が正しくとも、何がどこにどうつながってそうなるのか、まったく判らぬわ。」
そう言いつつ、杯の中の酒を睨みこむ。
この予見、当たってほしい。だが、そんな事が本当に自分に起こり得るのだろうかという気持ちも胸の奥から湧いて出た。

ああ、御師はこうも言っていた。
『そなたは主人の為に死ぬが、そなたの子がその主人を殺す。
そなたは主人に従い何万もの人を殺めるが、
そなたの妻はその主人に背いて何百万もの人を助ける。』

 長井隼人よ…儂は、この与三は未来にあなたの為に死ぬ運命にあるかも知れぬのに、何故に一言の言葉もよこしてきてくれぬのか。儂が送った書状には、目を通してくれたのだろうか。

武藤も酒をチビチビ飲みながら、不満をこぼす。
「伝九郎殿も、以前はあれほど与三様にくっついておったのに。書状も何もよこしてくれないのでござるな。」
与三はまた、グィと一気飲みした。そして空の杯を武藤に突き出して、酒を入れよと促した。その時、何気なく外の様子を窺うと、先ほどの辻説法に人々が耳を傾けている。

「え…。」
と、与三は不可思議に思い、のそりと立ち上がった。いや、人は辻説法の場に寄ってはいないが、人々は遠い場所に身を置きつつもじっと耳を傾けているのだ。以前までは、斎藤道三の悪口をいう声があがらば、道を歩く者たちは皆、耳に蓋をするかのように無視を決め込み、そして巻きこまれぬようにそそくさと通り過ぎていた。そして時をおかずに、鑓を持った番人どもが道三の悪口する者をひっ捕らえにやってきていた。なのに…。

「斎藤道三の嫡男・龍興は道三の子にあらず。実は正真正銘に守護職・土岐頼芸公の子。その訳は頼芸公が側室を道三に賜った時、既に懐妊していたのだ。そして…」
そう言っている。以前も同じことを耳にした。
この店を切り盛りしている女は知り合いだ。与三は女を呼んでそれとなく尋ねてみた。
切られても切られても、ああやって繰り返し、繰り返し新たに人が来て、辻説法を繰り返すという。城下町を警備する斉藤家の者たちも、毎度それを捕縛して稲葉山に連行していたが、それがあまりに頻繁なので、警備の者たちは曲者の侵入を許した事そのものについて上の者達から責め立てられるようになり、それでは叶わんということでだんだんと手をゆるめるようになって、よほど手荒な事がない限りは進んで捕縛しなくなってきたというのだ。

「はぁ…。道三の子が実の子でないという話は、もぅよほどの事ではなくなってしまったのか…。」
与三はよろめいた。店の女が肩手で与三の背中を支える。
「森様。腹に何も入れぬままで酒を飲むから酔ってしまわれるのじゃ。何かお出ししましょう。」
「ああ、悪い。」
そして与三は再び腰をかけた。
「フン。儂自身も、道三への非難を聞き慣れてしまって、それをどうこうしようという思いが失せてしまっている。」
こんな乱世のどうしようもない世の中でも、世間には、人の信頼を欺く謀略を重ねて血ぬられた道のりをのし上がってきた斎藤道三を非難する正義が存在するのか。
その道三が娘を織田信長に嫁がせようとしている。この婚姻で子が生れれば織田家の正統な血筋を斎藤道三の家系に混ぜることに成功する。
「本当に、義龍は道三の子ではないのでしょうかねぇ。」
「ううん…。どうなのだろうなぁ…。」
与三は肩を回した。酒の中に月が映りこんでいる。空を見上げると、明るい月が射している。いつか世に出たい。
与三は月ごと酒を飲みほした。

 そして心地よい酔い加減で帰ってゆくと、与三の部屋には次郎がいた。待ち疲れたのか、そのまま壁に寄りかかって眠りこんでいた。「風邪をひくぞ。」と与三が揺すり起せば、次郎は重たい瞼をあげ、だらりと垂らしていた右手で眼をこすった。
「すまぬ…。」
「いかがなさった。小姓部屋から追い出されたのか。」
「隼人様から何のお報せもこないので…森どののほうはいかがかと尋ねたくて。」
「いや、儂のところにも何の報せもない。それよりも最近、小次郎どのをお見受けしないが、息災なのか。」
今朝、隼人の烏峰城相続でおおはしゃぎで来た次郎が、夕方には隼人から何の報せもこないと落ち込んでいる。彼の小さな心には、長井隼人のことしか頭にないようだ。
「ああ…小次郎は私にはまったく口を聞こうとせぬが大丈夫だ。それよりも、隼人様が私どもをどう思っておいでなのか、不安でならぬ。」
「儂もだ。」
それを聞くと、次郎は長いため息をついた。与三は言葉を続けた。
「だが、このままということではあるまい。辛抱強くきっかけを待っておれば、必ずこちらの思いを訴える機会はめぐってくるはずだ。」
次郎は黙っている。
両者の沈黙の末、与三はふと、さきほど城下町で聴いた話を思い出して次郎に語ってきかせた。そして斎藤道三と義龍の本当の関係について何か知っているのか尋ねてみた。とたんに次郎の表情は暗くなり、視線を壁に落した。
「森どのは伝九郎殿と仲良くなさっていたように見受けていたが…そのような話はなさらなかったのか。」
「いや…。」
「そうか。」
次郎は下唇を噛んだ。話すべきか、話さざるべきか、頭の中で考えているようであった。しかし、やがて、与三にしか聞こえぬ声で語り始めた。
「義龍様は道三公の子ではない。頼芸公のお子だ。」
 

プロフィール

うきき

Author:うきき
森一族の小説を書こうとしています。

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