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小説『森一族』

戦国時代を彗星の如くに生きた森一族の小説です。 SINCE:2008/9/20

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第三十六話:「予兆(三)」

 
「与三さま、与三さま。」

武藤が昼までふて寝する与三を揺り起こす。
「ああ、うるさいのう。五郎はうるさいのう…。」
与三は右手をついて気だるい身体をじわじわと起こしてゆく。自分の目が腫れぼったい。まだ胸がうずいている。
そして昨日の痛烈な心の衝撃が、どうにもできないやるせなさと共に再び与三の中でよみがえる。

『そうだ、儂のお立は他の男に奪われて嫁に行ってしまったのだ___。』

足を組んで座る着物の間からふんどしも露わにして与三はじっとうなだれる。
「いや、このままではいかん。こうしている間もお立は泣いておるに違いない。儂は…やはり、やはり蓮台村に戻ってお立を取り戻してくる。今行かねば後悔する。」
と、昨日と同じことを言い出し、やおら立ち上がって刀を腰に差す。
武藤は腰を下ろしたまま、与三の動きに合わせて目をキョロキョロとさせる。
「…与三さま。義龍殿が多くの方々を従えて今、隼人殿の元においでです。」
「それがどうした。儂にはお立の身の上の方が大事じゃ。はよう馬の用意をせんか。」
しかし、武藤はそのまま座っている。
「そもそもお立さまとは長いことお会いしておらぬではないですか。嫁ぐ前ならともかくも、もう嫁いでしまったものを一体どうなさるのですか。ここは潔く諦めなされ。」
そう言って釘をさす武藤に与三はすぐさま言い返した。
「お立は儂が生涯を共にすると決めたおなごぞ。そのおなご一人も救えずにどうするのだ。」
与三は動かぬ家来に居てもたってもいられず、履いた草履の紐を結ぶこともせずにそのまま飛び出して自ら厩に走って行く。
「だめだこりゃ。」
武藤も立ちあがって後ろからゆるゆると与三についてゆく。
厩に入れば、与三は腰をかがめたり棚を見て自分の鞍を探して回る。厩には隼人の家来が2、3人が固まって話をしていたが、与三の様子に何事かと寄ってゆく。さらに、武藤が後ろからゆるりと厩に入ってくる。
「五郎、鞍…はどこだろうか。」
与三が振り返って五郎を見ると、興奮して先ほどまで気づけなかった厩の中の詳細が目に入ってきた。与三とは別の棟の立派な厩には客人達の馬が並び、それぞれの馬丁達が控えている。
「あ…。」
馬を見れば今、長井隼人の館に誰が訪問しているのか判る。

ひときわ大きく太い足を誇って毛並の輝く栗毛の馬は斎藤義龍の巨漢を支える木曽駒。与三には到底手の届かぬ天下の名馬である。
その左右にあるのは、義龍の馬とはひけを取らぬ見事で優雅で上品な馬たち。そこに乗せられた漆塗りの鞍や鐙が主人の身分の高さを物語る。与三はしばらく馬を見つめて、ようやくその馬の主どもを理解した。いずれも道三の家老達の馬である。与三を嫌うあの家老達のものだ。
既に隼人の病は完治しているのに、見舞いでもなく、しきりにこのような白昼堂々長井家を訪問して、彼らに一体何の話があるのか。与三は自分が何のために厩に飛びこんだのかも忘れ、我に返って呆然と立ちつくした。
「今日は、何ぞあったのか。」
厩に控えていた者たちに問いかけたが、彼らもよく判らず首をふる。
理由はわからぬが長井隼人は客人達の訪問を受けてそのまま全員で部屋に籠って何やら話をしている。今のこの状況では隼人の元へ行き、蓮台村に帰る許可など到底取りつけられそうにもない。いや、与三は先ほどまではそういう事なども一切忘れてそのまま飛びだしそうな勢いであったが、与三は少し冷静さを取り戻していた。そしてぼんやりと馬を見ていれば、客人のための厩の最も奥まった場所には何と亡き長井伝九郎の愛馬がいるではないか。
与三は思わず「あ…。」と声を漏らして伝九郎の馬に近づいてゆく。
「そなた…息災であったか。今は誰のものになっておるのだ…。懐かしいのう。なんと懐かしい…。」
 与三は伝九郎がまたがっていた駿馬の首をなで続けた。馬は無邪気に白い歯を出して与三の髻に口を伸ばしてくわえようとして遊ぶ。

『自分を慕ってくれた伝九郎は死んだ。
たった一つを望んだ恋さえ奪われてしまった。
目の前に居並ぶ名馬たちはどれも自分のものでない。
どうして世の中には思い通りにならぬことばかりなのか。』

 そんな時だ。
昨日やってきてすぐに立ち去ったはずの近松新五右衛門が、再び与三の元を訪れた。与三はお立のいる蓮台村につながる近松の存在がまだ手近にいたことに対して、運に見放されてはおらぬような心地がして深く感激した。
「ああ、新五。そなたまだ稲葉山に留まっていてくれたのか。さては儂の身を案じてくれたか。」
しかし、言葉を投げかけられた近松は昨日よりももっと深刻な顔をした。
「いえ、留まっていた訳ではなく一度村に帰ってまたすぐに参りました。他の者には聴かれたくない話です。」
「何だ。また何かあったのか。」
近松はそっと懐より書状を取り出して与三に渡した。それを手にした与三は誰もいない木蔭に入って近松と隣り合わせてその書状を広げた。しかし、実際のそれは体裁の整った書状でなく、短い言葉の羅列である。
宛名も差出人もない。けれどそこには驚くべき話が書いてあった。

 昨夜、尾張の織田信秀が突然倒れて床に入ったまま物も語れぬ状態にあること。
この話が漏れぬように、城内に居合わせた者達はそのまま城の外へ出してもらえなくなったということ。
医師も僧侶も多く城に入ってそのまま一晩城内に残っているとのこと。

「これは、確かなのか。」
「確かです。城内にあってこの事を大殿に報せたのは蓮台出身の者。今は織田の家中に嫁いで末盛城に身を置く侍女でございます。台所出入りの者もまた蓮台村の者だったので、そのままこの書状を託されてまいりました。さらに大殿が人を遣って調べたところ医師の屋敷もみごとに留守で末盛城に入ったまま。城には客人の立ち入りもできぬ様子。確実に何かが起こっておりまする。大殿はこの事を早く与三さまにお報せするようにとのことでした。何より、那古野の信長の元に入っている斎藤家の者たちはまだこの話を全く知らぬはず、まだ道三どのにも伝わってないはずです。美濃国内でこの事を知るのは、今は与三様のみでございましょう。」

 今、自分の手元に飛びこんできた国を揺るがすこの重大な事件に、お立のことも忘れて与三は静かに興奮した。背中には脂汗がじとりと滲んでいるのを感じる。
これを告げるのは、早ければ早いほどよい。すぐに長井隼人にこのことを報せるべく、与三は近松を連れて屋敷にあがった。

 隼人は義龍や家老衆と何やら相談事をしていた最中ゆえに、途中で取次の小姓を介して与三ごときに呼び出されると面倒くさそうにして今までいた広間から出てきたが、憎き織田信秀が倒れた話を知るや急に顔色を変え、さらにその情報が確実なものであると確信するとますますその血色は冴えて歓びに満ち満ち、これ以上にないくらいに勝ち誇った表情で与三の前に膝を立てて乗り出した。
「うむ。昨夜は那古野城に早馬が来てその後に信長が早馬とともに飛び出して行ったことまでは私にも報せがまいっておったが何があったのかまでは判らずに探っている途中であった。そういうことであったか。信秀が死ねば尾張など手に入ったも同然。ふふふ…どうやら私にますます運が向いてきた。」
 隼人は与三の背中をポンと叩いてそのまま広間に入るように促した。斎藤義龍を初めとする客人達が居るその広間である。そして隼人が部屋に入った者たちの前で信秀倒るるの報を告げれば、この尾張の同盟者の不幸に皆が皆、喜びの色を見せた。隼人は瞬時にして自分の頭の中で今後のことを計算したらしく、すぐにそれを口にした。
「今となっては、信秀と和睦を結び帰蝶殿を尾張に嫁がせていたことは不幸中の幸いであった。我々は理由をつけて堂々と尾張に入ることができる。ましてや信秀は駿河の今川と対峙しておる最中である。病床で動けぬ同盟者の加勢と称して美濃の兵を尾張に入れることはたやすいことだ。今すぐに兵を集めて尾張に向かわせようぞ。与三、そなたはそれより先に那古野城に入って林新右衛門らと謀りあい、乗っ取りの用意をせよ。」
隼人は鉄扇を取り出して采配した。その隣で緩慢な所作を見せつつ斎藤義龍が答える。
「叔父上、そう早々と話を取り詰めるのも如何なことか。それに先ずは父上にこのことを相談申し上げねば。」
義龍がそう言い放った瞬間に、興奮していた場は水を打ったように静まり返った。隼人は少々息を抜いて笑い、首を振って義龍の前に立ちふさがった。
「義龍殿。今、誰に相談いたすと申されたかな。我々が頂戴したいのは、道三の言葉ではなく、義龍殿、貴方のご命令ひとつぞ。」
 そうしてこの場にいる皆は、顔も姿勢も義龍に向けてあとは一心不乱に義龍の御意を待っている。
与三はこの場の展開に、ぎょっとした。道三は無視か。いつの間にこのような事になってしまっているのだ。

さて、隼人に促されて義龍は少し考えて口を開いた。
「尾張にも手ごわい宿老たちがある上は、たとえ信秀が倒れたとてそんなに容易く事が成就するはずもない。まずは信秀の病状と、そもそもこの話が嘘か誠かを知るために末盛城へ見舞いの使者を遣わすべきだ。」
隼人は慎重な御曹司のこの考えにすぐさま首を振った。そして半ば脅しかけるように強く言葉を絞り出した。
「悠長なことを申されますな。信秀の周辺が動揺しておる今だからこそ打てる一手にございますれば、このスキに乗じずんば必ず好機を逃しまする。」

義龍は、「ならばそのようにいたせ。」と頷いた。
 
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第三十七話:「別れ路(一)」


 人の別れが突然である事もあれば、出会いが突然である事もある。
どんなに自分の運命を変えたいとあがいても動かせなかったのに、不意に扉が無条件に開け放たれてこれは夢かと驚かされる幸いに出会える事もある。
だから人はいつも心の準備をしておかなくてはならないのだ。自分が最も望んでいたものに巡り逢えた時に、すぐにそれだと分かるように。

森与三が織田信長に出会う為には、長井隼人との別れが必要だった。
そして織田信長が森与三に出会う為には、父・信秀との別れが必要だった。

 尾張の統一も果たさぬまま織田信秀が突如病に倒れたのは、まだ織田一族の中ですら公然と敵対する最中であった。更には美濃の斎藤道三と駿河の今川義元という呑狼を隣人に持つことを許したまま、まだ年若き我が子・信長を敵だらけの恐るべき境遇に置いたまま、口もきけぬ状態になったのである。信秀が倒れた事は内密にされていたが、織田弾正家がいかに隠蔽を図ってももはやそれは公然の秘密であった。あれだけ意欲的に周辺の国と戦いに明け暮れた男が馬上から忽然と姿を消せば、嗅覚の鋭い敵どもが分からぬはずがない。

 今は斎藤家にもその報は入ってきた。森与三が美濃にもたらしたこの情報も、一日経った時点で確実な話として那古野の美濃衆から飛びこんできた。信長の那古野城には斎藤道三の娘・帰蝶もいれば、彼女に従っていった斎藤家の者も多くいる。もはや織田家の状況は手に取るように判った。
あの信秀は、酒を煽っていた最中に突然倒れこみ、病状は寝た切りでもはや意識もないのではないかという話で、僧侶や神官の加持祈祷に託すのみである。何よりもその織田家の不幸に長井隼人は大喜びである。尤も恐れて憎んでいた獰猛な尾張の虎が、今は猫よりも弱くなってしまったのである。面白くないはずがない。

 隼人は与三らを連れて稲葉山城にあがった。斎藤道三の面前で尾張に対してのこれからの対処の相談が行われた。
与三はその面子に驚いた。いや評定の場にはいつも通りに斎藤道三も家老衆もいたが、それは昨日、長井隼人の屋敷にいた者たちであり、更にはいつも父親から逃げるようにしていた義龍殿がきっちりと評定に参加している。そして、この評定の場の主導権を握っているのは完全に長井隼人であった。いつも人の意見を入れずに強引とも思えるほどに自分だけの裁量で物事を進めていた斎藤道三は、今日はまるで借りてきた猫のように黙って話を聞く方に務めた。ものの数日でこのように立場がひっくり返ってしまうものなのだろうかと、与三は不思議でならない。

そして隼人は意気揚々と話を進めた。
「信秀殿はもはや危篤な状態であられる。しかし嫡男・信長はまだ十五、六。信秀殿ですらどうすることもできなかった織田家家中の不満も抑えきれなくなるのは必定。さらには家督をめぐって織田家家中が混乱をきたすのは目に見えておる。そうなると若い信長に勝ち目はない。ましてや国外においては信秀殿と今川家との敵対状態もそのままだ。ここは信長殿と帰蝶殿の夫婦に我々が加勢してやらねばならぬ。信長は大事な婿殿だ…のう、お屋形様。」
 既に、長井隼人は道三にも織田家にも断りを入れずに尾張に送りこむ兵を取りそろえてしまっている。隼人は自分の用意周到さにもう笑いが止まらぬという感じで、あとは道三が黙って首を縦にふるのを確かめんと横目で道三を見た。
道三も「うむ。」と一言だけ頷く。それを見て隼人はさらに満足気に笑った。
「義龍殿もそれでよろしいか。」
隼人は義龍を見た。義龍も即座に頷く。

隼人は誇らしげに「では、信長を助けるため、補佐として力量のある者を選んで織田家に送りこむ。」と言ってのけた。すると、評定に加わっていた二、三人の者が、自ら名乗りをあげたり、もしくは思い当たる候補の名をあげた。
しかし隼人が首を振る。隼人の中ではもう尾張に入れる者達が誰なのか決まっているのだ。隼人は自分に都合の良い者たちの名を並べてさらに話を続けた。
「織田信長はまだ若うござる。老獪の者ばかりが那古野城へ押しかけたところで信長は警戒して打ち解けぬでしょう。ここに居る森与三や余語どのなどを人数に含めるべきと思うがいかがかな。」
名前をあげられた余語はその評定の場には居なかった。しかし、与三や余語を煩わしく思っていた家老達は隼人に口裏を合わせた通りに賛同すると同時に、小憎たらしい若造二人が一度に美濃からいなくなる痛快さも手伝ったのかそのまま一気に賛成した。
 与三は慌てた。自分が尾張に行くのは事前に知らされていたが、隼人が余語までもを頭数に入れているなどとは思ってもみなかったのだ。あいつと一緒に尾張に入るのだけはごめんだ。死んでも嫌だ。
しかし、その事には道三までもが了解した。そしてその後に与三に向かって言葉を足した。
「与三。そなたなら信長も信頼してくれようし、儂もそなたを大いに信頼しておる。」
「え…。」
自分に対してだけ道三のお言葉があったことに与三もきょとんとしたし、それには隼人がやや不快そうに眉根を寄せた。家老達も義龍も与三を見つめている。一呼吸置いて隼人が頷いた。
「そう、与三ならば、上手くやるでしょう。」
さらに道三が「では、その間、武藤らは儂が預かろう。」と抜き打ちに言ったので、与三は再び驚いた。いや、武藤は不要のようであって必要だ。改めて道三に向きなおって頭を垂れた。
「いや、武藤を預かる…とんでもございません。あれは蓮台村からずっと連れ添ってきた者です。離れることなどできませぬ。」
「案ずるな。武藤のことは大事にいたす。尾張にいる間は隼人から別の者を宛てがってもらえ。のう、隼人。」
隼人は与三や武藤は自分が飯を食わせている認識があってか、ムッとして気持ちのいい顔をしなかった。しかし最終的には妥協して頷いた。
味方ばかりというのに、この評定の場には何とも重苦しく嫌な空気が漂っている。

こうして稲葉山城内は不協和音を奏でたまま、織田家を乗っ取ろうと動き始めたのである。



第三十八話:「別れ路(二)」

 尾張に出向く前に、森与三は長井隼人に挨拶に行き、束の間ながら二人きりで話をした。この時、隼人は織田家に入っても恥ずかしくない着物と刀や長櫃に道具の一式を与三に用意していた。中でも与三は目の前に差し出された刀に目を見張った。その刀には見覚えがある。
「あ…これは…”雁が音”…。」
与三がつぶやくと、隼人がゆっくりと口を開く。
「そうだ。これは伝九郎の所持していた刀だ。伝九郎はいつもそなたについて回っていた。慕っていたのだろう。伝九郎のその気持ちを思えばそなたに渡すべきと思う。その刀と共に尾張へ行ってくれ。」
その刀がどれほど立派なものか、伝九郎がどれほど気に入っていたか、そして伝九郎がかつて加納口の織田信秀との戦いにおいて身につけていた事も、与三はすべて知っている。
カチリと鍔をひねって音を鳴らし、半分ほどその刀を鞘から抜いてみた。 うす暗い部屋でも、白く浮きあがるような光が白刃につきまとい、まるで刀そのものから光が発せられているようだった。
与三の鋭い両眼が、その白刃の上に鏡のように映りこんでいる。
隼人の前で刀に心奪われたままの与三をとがめるわけでもなく、隼人は右手で自分の左腕をさすりつつ言った。 フ…と笑いを漏らした。
「帰蝶が織田信長に嫁ぐ前…お屋形様(道三)が短刀を贈ったのだ。『信長が評判通りのうつけであればこの刀でヤツを刺せ。』と申し添えたらしい。しかし帰蝶は…『この刀は父上を刺す刃となるやも知れませぬ。』と答えたそうだ。」
与三はその話を聞いて、目線を刀から隼人に移した。じっと隼人を見た。それの視線に隼人は優しい笑みをこぼした。
「与三。もしも織田信長がまことに評判通りの”うつけ”であれば、儂は手のひらの上で奴を飼い慣らせばよいと思う。しかし、あれがもしも信秀ほどの将たる器の男であれば…この美濃を害す恐れのある男であれば、そなたその刀で信長の首を獲れるか。」

 その一言が解き放たれた後の部屋は何よりも静かだった。
与三はチン、と刀を元の鞘に納めた。

「あれは…拙者は信長を一度見受けただけでござれど、あれは”うつけ”ではないと存じます。」
「さらば、その刀でヤツを刺せ。」
隼人はそう言ってアゴを突き出した。
与三はゴクリと唾を飲んだ。
「ならば先ずは拙者は織田信長の信用を勝ち取らねばなりませぬ。その為に拙者が信長に有利になるように働いても、隼人殿は私を裏切り者とは思わずに、必ず信じ続けてくださいますか。必ず…。」
それを聞いて隼人は黙りこんだ。即答しない隼人に与三は内心驚いた。
「与三。…そなたも、私を最後まで信じてくれようか。」
「それこそ聞くに及ばず。」
与三は両拳を床にのせて隼人の前で頭を垂れた。
「しかし隼人どの。拙者がご身内のことを申し上げるべきでもないでしょうが、道三殿に対して強引な真似はなさらないでください。従容としたお姿のいつもの隼人殿をこそ、皆が慕っているものと拙者には思えます。ひとえに隼人殿の身を案じて申し上げるのです。それに信秀の力が削げたこの今が好機と尾張にばかり気を取られては、背後の六角や朝倉がこのままじっとしているはずもございません。私のくだらぬ心配など無用とは存じておりますが…。」
隼人は、今一度、与三に向かって口角をあげてほほ笑んだ。
慈愛に満ちた、与三の慕う長井隼人だった。
「与三息災でな。」

与三は更に深く礼をした。
「隼人殿こそ、どうかご息災で。では、尾張まで行ってまいりまする。」

 与三が部屋を退こうとすると、隼人は右手をあげて「待て。」と止めた。
「与三…前々より不思議であったのだが。私は以前そなたに織田家の戦利品をこの部屋に並べて、そなたに好きな物を選ばせた。あの時なぜそなたは茶道具を選んだのか。他にも武具が沢山あった。何でも選んでよいと言うたのに何故よりにもよってそのような物を持って行ったのだ。」
与三は当の本人でさえ忘れ去っていたような話を別れ際のこの時に隼人に出されてポカンとした。
「あの時…ああ、織田信秀が加納口に攻めこんできた時の戦利品でございますか…理由は…覚えておりませぬが、その時はそれがよいと思ったのでしょう。それが何か。」
「そなたは常々戦で功をあげたいと豪語しておったのに、どうしてヒョイと茶道具を持って行ったのかと思うて、疑問に思えてならなかった。」
なぜ今このような時に隼人がそのような事を尋ねてくるのかも不思議であったが、与三は少し困った顔で笑ってみせた。
「別に嫌いではございませぬぞ、茶の湯も、和歌も。ただ、隼人殿にご披露する機会が一度も無かっただけでございます。」
それを聞いて隼人は「そうか。知らなかった…。」と答えた。

 与三が隼人の屋敷を退けば、武藤がしょんぼりしてうなだれている。目には涙、鼻には鼻水の筋が幾重にもあった。仲良く連れ添ったこの主従だが、与三は尾張の信長の元に去り、武藤は稲葉山の道三の元に残る。今日で別れとなる。それが一時的なものなのか、永遠のものなのか、不安が交差する。
「五郎、残念だが仕方のないことだ。そなたも息災での。」
「蓮台村からお供してより今日まで一日たりとて与三さまのお傍を離れたことがなかったのに。拙者だけがここに残っては、もう生き甲斐がござらぬ。何とか筋を曲げてお供させてくだされ。」
与三はハハ、と白い歯を出して笑い首を振った。
「もし斎藤家が嫌になれば、そなたの判断で稲葉山を抜け出せばよいぞ。」
「え。いや、拙者は与三様が尾張にいらっしゃる間の人質でござれば、そのようなことできませぬ。」
与三は噴き出した。
「人質とは、誰が、誰の人質なのだ。そなたが一人稲葉山から逃げ出たところで誰も気にせぬわ。」
「そんな、与三様…。」
「五郎、どうか関城に居る西村次郎のことも気にかけてやってくれ。頼むぞ。」

 森与三は心の奥で何かフツフツと湧く喜びや幸福に似た感情があるのを感じていた。
ともすれば、それは斎藤家の複雑怪奇な人間関係から束の間でも解放される歓びだったのかも知れない。
或いは運命の人・織田信長の懐に入る喜びに無意識に与三の魂が歓喜の叫びをあげていたのかも知れない。
 尾張に行くとあらば、死を覚悟しておかねばならぬほどのものを、与三は不思議なほどに心が軽かった。

 しかし、同行者の集団の中に虫の好かぬ余語盛種の姿があるのを見て、これからずっとこの男と行動を共にせねばならぬ事を思い出し、一気に興覚めさせられ、心が重くなり、与三は思わずチッと舌打ちした。



 

プロフィール

うきき

Author:うきき
森一族の小説を書こうとしています。

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