小説『森一族』

戦国時代を彗星の如くに生きた森一族の小説です。 SINCE:2008/9/20

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第四十五話:「三左衛門(一)」



天文二十年春。
 織田信秀は相変わらず床から起きることもできなかった。
正月というのに「この冬が越せるかどうか。」という話がささやかれた。
元旦は尾張にも雪が積もり那古野城と城下町をうっすらと白く染めたが、それにも関わらず雪の細い街道を縫って織田一門や周辺の有力者たちが信長の父・末盛城を多く訪れ、新春の挨拶がてら信秀の病状伺いを試みた。
訪問の使者は城外にまで列をなし、平手秀政と信長も末盛城に入り、信長が信秀の代理として慌ただしく応対していた。
美濃の斎藤家からも正式に新年祝賀の使者が訪問し、信長と帰蝶は夫婦ともども歓迎した。
 
 どさくさに紛れて、森与三の蓮台村からも織田家へご挨拶の使者が訪れていた。その使者・近松新五右衛門が帰り道に与三のいる那古野城を訪問した。那古野城の留守居役に新年の寿ぎをし、この城で森一族の者が世話になっていることを告げて与三に面会も許された近松だが、しょっぱなからひどく立腹していた。
「何をお考えなのですか。去年はまったく村に帰らずじまいではないですか。少しは大殿のお気持ちをお考えなされ。」
「どうせ儂は身を立てる事もできずじまいでいる。このまま村には帰れぬ。」
「ああ、もう、意地を張らずに一度くらいは村に戻って皆に顔を見せてくだされ。村の若い者の中には若殿のお顔を見たこともないという者も多くなり申した。」
森可成は新五右衛門の言葉にカチンときた。蓮台村に帰らぬのは、意地を張っている訳ではない。
「では、何なのですか。」と、新五右衛門はにらみ返した。
「まさか、まだお立様のことを傷心なされているなどと申されますまいな。」
と、にらみ返した途中で「あ。そうだ。」と言って懐から文を出してきた。恋しいお立からのものかと可成は文に無意識に手を伸ばしたが、
「これは稲葉山にいる武藤から預かりました。あいつ、かなり丸々と太っておりました。」
と言いながら渡されて、一気に興ざめした。
「稲葉山へもそなたが挨拶にあがったのか。」
「はい。拙者は一宮の関殿と示し合わせて一緒に稲葉山に参りましたが、どうやら我ら以外にもかなりの者が斎藤にも織田にも両者に挨拶に行っております。斎藤家も中でこじれておかしなことになっておりますし、織田家は織田家で信秀殿が病に倒れていつとも判らぬ命ですし…何が起こっても仕方が無い状況、これではまた埋めていた水堀を近いうちに掘り起こさねばと皆ささやいております。」
与三は「ちょっと待て、斎藤家がおかしな状況とな。」と、眼色を変えた。
「詳しくは、武藤の文に書いてありますゆえご覧くだされ。ここは人の眼もございますゆえ、私はこれで。」
と、近松が去ろうとした。与三が束の間、引きとめる。
「待て、新五。儂は信長殿よりこのたび『三左衛門』を頂戴して三左衛門可成を名乗る事となったのだ…。」
近松は「え…。」とつぶやき、次の瞬間には「その下のお名前はどなたから頂戴なさったのですか。」と眉根をゆがめた。
「名付け親はおらぬ。自分でそう名乗ることにした。」
近松の顔色が変わった。横に首をふった。
「おめでとうございます。しかし、私は何も知らぬ事にいたしまするゆえ、一度は村にお戻りください。大殿とて本当は心待ちになさっておられるのです。そのような立派なお名前があるなら、胸を張ってお戻りになれるではないですか。」

 近松が那古野城を出た後、与三は両肩を落として大きくため息をついた。
再び ため息をついて縁側より庭へ下り、武藤の文を開いた。道三預かりの身になっている武藤。
今の美濃の情勢をどう伝えておるのか。武藤の文は
『このことはとても文字にはできませぬゆえ、詳しくは近松からお聞きいただくように。』
との内容であった。
与三は次の瞬間には怒りで文を破いていた。そして腰を上げて身体をよじり縁側に登ろうとすると、目にせぬ小姓が音もなく存在して縁側に腰かけていた。ギクリ、として与三は手の中の破った文をさらにギュッと手の奥に握りこんだ。

 小姓は髻に梅の花でも差してニコニコとしている。そして座った姿勢のままちょっと身を乗り出してきた。
「上様が”サンザ殿”を呼んで参れと申したが、”サンザ殿”とは貴殿のことであろうか。」
「え…。」
与三は、自分のことではないぞ、と首をかしげたが、しばらくして
「サンザ…三左衛門か。儂のことかも知れぬな。」

縁側を登るそばで、小姓はホッとしたような顔をして無邪気な笑いを浮かべた。
「よかった。」
寒い冬の廊下をめぐって「サンザ」を探していたのか、頬が赤らんでいた。
「信長殿はもう末盛城からお戻りなのか。」
「はい。また明日おでかけのようですよ。」
与三が手の中の紙を懐にしまって廊下を歩きはじめると、犬千代もピョンと立ち上がり、並ぶように歩いてきた。
「拙者は、荒子村の前田犬千代と申しまする。今日より上様にお仕えすることになりました。どうぞよしなに。」
「そうか、儂は森三左衛門だ。」
「美濃からお越しの方ですよね。斎藤家のご家来と伺っておりまする。」
「ああ、しかし、里は尾張の蓮台村だ。」
「蓮台村、存じあげております。一度、使いで尋ねたことがあります。」
犬千代という小姓は、さも嬉しげな表情をして、可成の真横にぴったりとくっついてきた。
 この笑顔で与三は急にかつて美濃で親しんだ長井伝九郎のことを思い出した。いや、長井伝九郎は同じ年頃でも、いつも笑顔に陰りがあった。寂しさや悲しみを含んだ笑顔であった。地獄の中にあって与三に一筋の光明を見出したかのように、必死に与三に取りすがっていた。あの伝九郎が亡くなり、それでも日々は刻々とそして淡々と過ぎてゆく。まるで、そもそも長井伝九郎など初めからこの世にいなかったかのように___。

 廊下を渡り歩く間も、犬千代なる小姓は息を継ぐこともないように可成に話しかけてきた。遊びがしたくてじゃれてくる子犬そのものであった。
『ああ…誰にでも大事に大事にされて育って人の愛情を疑わぬヤツなのだろう。人も自分の話を聴きたいに違いないと思いこんでいて、このように話しかけてくるのだろう。』
初対面にして与三は犬千代をそう判断した。
自分が誰からも愛されていると信じこんでいるヤツは…実は苦手な相手だ。自分がそういう育ち方をしなかったからかも知れない。
「そうか。」「ほう。」と、適当に言葉を誤魔化しつつ、与三は信長のいる大広間に足を運んだ。

「ああ、そちらではございませぬぞ森殿。上様は森殿とだけお話したいと奥の部屋でお待ちです。」
「え…。」
与三は、そのつもりではないので内心焦ったが、促されるまま奥にそのまま小さな部屋にあがって行った。
「森殿をお呼びしました。」
与三が部屋の向こうで頭を下げ、犬千代が部屋の襖を開けると奥では信長は礼服を脱ぎ捨て冬の寒い日であるにもかかわらず、袖から風の吹き抜ける薄い湯帷子に着替えている最中であった。犬千代がサッと部屋に入って着付けを手伝う。しかし、ヒョウタンや巾着を巻きつけてある荒縄をどうしていいのかわからずに手にしたままとまどっていると、信長がすかさずそれをとりあげてギュッと腰に締めた。
「…それで、寒くはござらぬのか。」与三は思わず尋ねた。
「冬でもこうして鍛練をしておるのだ。」信長は自慢げに言った。
「こちらは見ているだけでお寒いですな。」
「そうか、儂自身はまるで寒くない!」
「…寒くないなら鍛練にはなりませぬな。正月には外からの出入りも多い時、きちんとした衣装を身につけられたほうがよいかと。」
そのやり取りに、背後から犬千代がちぎれるような笑い声をあげた。信長がキッとにらむと、犬千代はハッとしたように笑いを止めて、姿勢を正した。
与三も姿勢を正し、信長に向かって頭を下げた。
「お名前を頂戴しておきながら、正月の慌ただしさにお礼のご挨拶も遅れて、誠に失礼いたしました。」
与三は頭を下げたままでいた。信長がウンともスンとも言わないので、頭をあげるきっかけが見つからない。
それでもあまりに時間が経ちすぎると、このまま切られでもするのではと思い始めて、床についた両手に力を入れ、首を回して少々頭をあげてみた。
すると、驚くほど眼前に信長がしゃがみこんでいた。事実、信長の息が与三の頭の上にかかってくる。そして、どちらかといえば、与三の顔の前には信長の股間があった。
ギョッとする与三に信長はニヤリとする。
「夜はかがり火を焚いて能楽をやる。お前も見るか。」



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第四十六話:「三左衛門(二)」


 森与三、いや、森三左衛門可成はドキリとして信長を見あげた。
「能楽…で、ございますか。」
信長が言うからには一流の能楽…甘美な響きに可成の心拍数があがってゆく。
「そうだ。京からわざわざ招いたのだ。」
信長は、可成が返答する前にフッと笑った。  
「では犬、その着物をサンザ殿に差し上げよ。」
信長の言う『犬』、とは前田犬千代のことである。
「サンザ(三左)」とは、森三左衛門可成のことであった。
いつの間にやら…いや、今日が初めてだが、信長は他家の家臣である可成を親しげにそう呼んだ。

 この部屋の隅にあった漆塗りの箱には真新しい着物が一式納められており、犬千代はそれを可成の前に披露した。
「三左殿、それを着てこられよ。」
可成は信長の用意周到さにとまどった。
「私めに、このようなことまでしていただくには…。」
本心からそう思った、信長にここまでされる謂われはない。
「よいではないか。犬、三左殿に着せてやれ。」
「ハイ!森殿。こちらへ参りましょう。」
信長の御前を退出して、犬千代に押し出されるままに控えの間に入った。
可成の傍にかがんで、犬千代は箱から着物を取り出して「おお!立派なものですなぁ。」と何やら着物の柄がすごいと感心していた。そして犬千代が可成の方へ身体を向けると、可成は焦って「着物くらい自分で召しますれば。」と自分の胸ぐらをつかんだ。
犬千代は「これも私の稽古でございますれば。さぁ。」と、楽しそうに可成の前に着物を持って座す。
「よくはござらぬ。」
と、犬千代の手から着物を取り部屋を出て行こうとすれば、犬千代は慌てて可成に背後から話しかけた。
「え…私めは森殿に対して何か粗相をしましたか。」
「違う。ただそなたの御手をわずらわせずとも、自分でするというのだ。」
犬千代が腰をあげつつ言う。
「ならばお待ちくだされ。ここで着替えてから出て行ってくだされ。私は殿に森殿の着替えを仰せつかったのですから私が着せたことにしてくだされ。」
可成が襖に手をかけようとした時に犬千代が背後から身を乗り出して言った。
「…そうだな。そなたは今日より仕え始めたばかりであられたな。」
「私にそのような言葉遣いは御無用です。荒子村にいた時は畑仕事も手伝って質素で粗野な生活をしておりましたから。」
「しかし今日より正式に織田家のお方じゃ。礼儀を欠く訳にはまいらぬ。」
 可成はその場で帯を解き、真新しい着物に袖を通しはじめた。犬千代は顔を右手で抑え、床に腰を落とている。袖に焚き染められた香の馨りが部屋に広がった瞬間、犬千代はクン!と鼻を鳴らした。
「私はただ、鑓を使える腕一本で信長様にお仕えできればそれでよいとばかり思ってこの城にあがりましたが、何だか、勝手が違ってとまどっております。本当は人に着物を着せるなど、どうやっていいのやら判りませぬ。」
犬千代は開き直ったような感じでそれを言い、可成は、犬千代から帯を受け取って自分で締めた。
「さようか、落ち着いて何とも器用にこなしそうだが…。」
最後に襟元をシュッと伸ばして可成は着替えを終えた。
犬千代はその姿を見上げて笑った。
「しかし、信長様はご自分のお着替えはご自分でなさるのです。」
「それは…あの瓢箪やら菓子がくくりつけてある荒縄の帯は本人の好むように結びたいであろうからな。」
二人でカラカラと笑った。
可成は部屋を出ようと襖に手をかけると、真新しい絹の袖がスルリと腕の上をすべって降りてくる。物につられるような可成ではないが、信長の心憎くて上品な贈り物に密かに高揚させられていた。

 能楽の始まる夜までは部屋に戻っていることにした。今日は帰蝶のお呼びたてもない。
美濃の長井隼人に文を書こう。それにしても美濃はどうなっているのか。何かよからぬことがなければよいが、蓮台村を初めとする時勢にしごく敏感な国境の領主達が騒いでいるのだから、きっと何かあるのだ。それを早く知りたい。それは、先日近松に会った時に、もっとよく聞いておくべきだった。

 部屋に戻る廊下で林新右衛門と英の父娘にばったりとはち合わせた。
林新右衛門は可成が上等の着物に身を包んでいるのを見て「これは、これは。どうなさいましたか。」とまたたく間に喜び顔になった。が、その隣に立っていた英は驚愕した様子で両眼をあらん限りに見開き、目を白黒させながら可成の姿を上から下から舐めまわすように見つめ始めた。
 そんな失礼にも気付かずに新右衛門のほうは、「三左衛門の名もいただき、一段と立派になられましたなぁ。こうしておりますと、大身の大名のようですぞ。」と、可成に吸い寄せられるようにトントンと近づいて行った。
背後で英は、わなわなと震えて唇をかんだ。目にはうっすらと涙がたまっている。確実に可成の姿に反応した感情である。
「どこぞご気分でもお悪いのか。」
可成がそう言うと、新右衛門は振り返って娘を見た。
「英、なんぞあったか。」
英は、可成にそっぽを向いて逃げ去るように立ち去った。
「最近、英はどうも様子がおかしゅうて。いやはや、何がどうなんだか男親にはまったく理解できませぬ。」
お前の娘は最近に限らず四六時中いつも様子がおかしいじゃないか!…可成はそう言いたくなるのをグッとこらえて我慢した。
新右衛門は、今一度、可成を見た。そしてうっすらと寂しそうに笑った。
「そのお着物は拝領なさったのですか。」
「あ、先ほど、信長殿からいただいたのだ。」
「どうやら、森殿も信長様に気に入られたのでしょうな。信長様は、また余語殿のように織田家の家臣になさりたいと言いだされるかも知れませんな…。」
可成は胸がドキリとした。
内心は自分もそのような気がしはじめていたからだ。信長が自分に関心を持ち始めている気がする。
「ないとは思うが、しかし、そのような事があってもご辞退申し上げる。第一、今の余語を見ればそれがよかったとは申しがたい。」
「あい…。」
そう言って、新右衛門は再び目を細めた。
「しかし、そのお着物、森殿によう似合うておりますなぁ…。我が家にも森殿のような立派な男子が生まれておれば、拙者も何の心配もないものを。」
可成は、目を丸くした。ちょっと引き気味の表情になり、新右衛門が我に返って謝った。
「これはこれは、失礼なことを…申し訳ございませぬ。」
可成は手を振り、首を振る。
「いや、そうではございませぬ。拙者は実の父親にもそのようなことを言われたことがないので。その…拙者、いつまで経っても浪人の身で、里の者達に顔向けができぬ身で…。」
それには新右衛門が首を振った。
「身分があがらぬのは森殿のせいではなく、長井殿のせいではござらぬか。」
「それは…。」
「長井殿もそれなりの器とご器量がおありなら…、いや、このような場所で話すことではございませぬな。」
林新右衛門は、首を振った。
「本物はいつまでも世の中に見捨てられるものではござらぬ。今、目の前にあるお役目を果たしておられれば、そのうちきっとよいことがございましょう。」
可成の方をポンと叩いて廊下を横切って行った。

 夕方。能楽の席に外にかがり火がたかれているが、その場には信長と小姓たち3名しかいない。犬千代もそこに座っていた。先ほどあった時はほがらかだった犬千代も、他の小姓と並んだせいか緊張しているようだった。
可成が「まだ皆さまはお揃いではないのですか。」不思議がって質問してみると、
「皆で揃って見るなどとは一言も申してはおらぬ。今日はこの五人だけだ。」と、信長は自分の真横に座をすすめた。言われるがままに、可成は信長の隣に腰を降ろした。
さすがに寒いのか、信長も今はかなり厚手の着物を羽織っている。横に干菓子がたくさん積みあげており、その一つを手づかみして可成に渡した。さらにもう一つを取ってそのまま自分の口に頬張った。
『何なのだ、信長と自分と小姓たちだけのこの構成は。やはり信長は儂に何か言い出してくるな。』可成は菓子を手にしたまま、そう確信した。家臣にしようというのならば、怒らせぬような言葉で断らねば。
信長は、後ろにいる小姓たちにも菓子の入った器を回した。
「明日は一族の者も含めて皆を能の席に招いておるゆえ、今日はその下稽古を見物いたすのよ。親父が病の折に不謹慎と言って半分は招待を断られたが…だからこそ演るものを。」
能舞台は本番さながらの準備がなされていた。可成は左右を見れば本当に自分たち五人だけだ。
「これはこれで、贅沢なものでございますな。」
信長は頷いて、さらに小姓たちに「そなたらもよく見よ。意味がわからずとも眺めておればよい。死んだ者が現れて、生前を語りおこしておるのよ。」そう語り、「初めてよいぞ。悪ければ半ばであっても止めるからな。明日やってくる伊勢守は能楽狂いぞ。」と、信長が合図すると、能楽が始まった。
その所作のついでに信長はチラリと可成を見て「着物の着心地はどうだ。」とつぶやいた。
「それは、もう何ともいえぬよき心地です。ありがたい。」
可成が礼を述べると、「そうか。」と、信長は笑った。
かがり火の薪の一本が燃え尽きてゴトリと音を立てて、一瞬炎が高くなった。
「その着物は、英に縫わせたのよ。」
「え。」
可成が聴き返そうとした時には、能舞台のシテは扇を広げ、はや中央で舞っていた。
可成はまっすぐに信長を見ていた。
かがり火が信長の半身を明るく照らしている。
「腰入れの時にヨメが美濃から伴ってきた若い者達は皆すぐに尾張者と婚姻させたが、英だけにはよい相手を見つけてやれなかった。儂はずっと…そのことが気になっておるのだ。」
信長は手にした扇子を左手でポンポンと受けながら、視線は能楽のゆっくりとした動きを見ていた。なのに、可成に向けて、はっきりと語った。
「三左殿。そなたが英をもらってくれるというならば、儂もありがたい。英も幸せになれよう。」



第四十七話:「三左衛門(三)」

 能楽の演じられる間、森可成はじっと沈黙していた。
芸能の幽玄も華美も今の可成の頭には入らなかった。ただ、笑顔もみせずに怯える英の面影が脳裏に浮かび、可成の心の出口を遮った。

 小姓達はただ漠然とそれを眺めるといった面持ちで能楽を眺め、信長だけは、能楽にのめりこんでいるようでたった。ただ、これほどまでにか、と思うほどにひっきりなしに菓子を口に詰めていた。

 可成の答えは既に決まっている。
可成は長井隼人の意思を汲み、あるいは戦を起こし、あるいは織田家を乗っ取りにこの尾張にやって来たのだ。織田信秀の死とともに始まる混乱を目の前にして、この尾張で誰かを妻に持つ気など毛頭ない。何より可成はいずれは、美濃へ帰る身だ。信長の妻となるべく尾張に嫁いだ姫に付き従って来た林家の娘と一緒になることはできない。ここは、仕方が無いと思える理由を何か一言言って断わるべきなのだ。
しかし、あれきり能楽に入りこんで黙る信長にそれを切り返す隙がない。

可成は信長の横顔を見た。
父の織田信秀が亡くなったら、彼は自分自身がどれほど厳しい荒海に投げ込まれるか、手のひらを返してどれほどの新たな敵が湧いてくるのか、きちんとそれを判っているのだろうか。心細くはないのだろうか。
 信長は可成のさりげない視線に気づいたのか、わざとそれを避けるように反対側に振り向き、身体もやや斜めにして自分の小姓達を見て言う。
「舞台の上の話についていけておるのか。そなたら『平家物語』は読んだことはあるか。」
小姓の1人が「有名なくだりだけは存じておりますけれども。」と言い、もう一人もそれに頷く。前田犬千代においても、一緒に誤魔化し笑いをしている。
舞台の上では修羅道に落ちて苦しむ武士の物語が切々と語られ、舞が舞われる。
信長はボツリと言った。
「敵も味方も、勝ち負けも究極には天の采配するところ。しかし、たとえどこかで負け死んでも名を惜しまれればいつまでも語り継いでもらえ、後世の涙を得ることもあろう。そのためには底の浅い粗野な人間だけにはなるべきではない。鑓を振り回すだけではならぬと言っておるのだ。荒みきったこの世の景色と同じになるな。」
可成も小姓達と同様にかしこまってそれを聴いた。
そして、信長はチラリと可成を見た。
「あの舞台のごとく、敵も味方も心ある者ならば、あの世では同じ蓮に生まれ変わろうぞ。」
信長はそう言ったきり、扇子をまとめるように閉じ、また静かに能を見た。

 信長の元を退出した可成を、林新右衛門が待ち構えていて、それはもうギクリとさせられた。
「やはり信長殿は、森殿をご家臣にお加えになりたいとのお話しだったのでしょうか。」
新右衛門が心配で仕方ない様子で可成のしぐさを目で追った。
「それはない…が、どのような話であろうと拙者はお断りを入れねばなりませぬ。いずれは美濃に帰る身でござれば。」
可成はそうして新右衛門の好奇心をかわそうとしていたが、
「そう早くにお答えを急がれなくてもよろしいではござらぬか。このまま織田家に残るのも一つの道ではございます。」
と、背後で不意に新右衛門がつぶやいて可成を驚かせた。
「森殿。手狭な拙宅ではござるが酒の用意もござる。どうか家に寄り召しあがっていかれぬか。」
可成は遠慮した。信長との先ほどの話を聴きだされても答えに窮することは目に見えている。この様子では新右衛門は自分の娘の縁談があがったとは知りもしないのだろう。
「さようでござるか、いつでも拙宅に遊びに来てくだされ。」
新右衛門は寂しそうに踵を返し、可成に背中を向けて廊下を歩き那古野城を退出していった。

 翌日、明け方に美濃の長井隼人から可成に書状がもたらされた。
その内容といえば可成が先日、送り届けた書状が織田家の事情を伝えるに精密さを欠くことを指摘したものだった。帰蝶が織田家になびいていないか、その動きもつぶさに教えろという。そして驚くべきには余語盛種が織田家の家臣になった事を怒りあの男を許すまじ、と書いてあった。それを止めない可成のことも落ち度としていた。余語が信長の家臣になった件は、お屋形(道三)より正式に許された事実を差し置いて、隼人は怒り心頭に達しているようであった。
「余語がどれほどの者というのか…。捨て置けばよいものを。」長井隼人が自分ではなく余語を気にかけていることに、不快感を覚えた。
その瞬間に自分の心臓の鼓動とともに能楽の鼓を打つ音の余韻が蘇る。
「儂とて後世にも誰かに語り起こされるような人間になりたい。隼人にしたがって行けば、その先にそれがあるのだろうか。」
また、さらに林新右衛門のあの言葉が思い起こされた。
『身分があがらぬのは森殿のせいではなく、長井殿のせいではござらぬか。』


 さて、この日に那古野城では新年の祝いとして織田家の一族を招いて能楽の本番が催されるはずなのに、城内には何の調えもなかった。可成は書物を抱えて廊下を過ぎる前田犬千代を引き留め事情を尋ねた。
「ああ、結局はお取りやめになったようですよ。雪道でお越しになれない方も多いのではございませぬか。」
犬千代は『平家物語』を抱えていた。
「それは、前田殿が読まれるのか。」
犬千代は「私だけではなく、小姓部屋の皆が読まねばならなくなりました。この先、こうして学ぶことばかりなのでしょうか。」
どことなく、面倒くさそうな、それでいて嬉しそうな表情をした。
「森殿は能楽の内容もご存知のようでございましたね。」

 実際には、信長の父・織田信秀が夜中より危篤状態に陥り、信長はすでにこの城を開けて末盛城に入っていた。
そのことを前田犬千代は知っていたが、それを森可成に告げる事はなかった。
さらには信長の室・帰蝶にすらその事を教える尾張者がなく、那古野城内の美濃衆にとってはそれがいつもと同じ朝のように思われた。



 

プロフィール

うきき

Author:うきき
森一族の小説を書こうとしています。

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