小説『森一族』

戦国時代を彗星の如くに生きた森一族の小説です。 SINCE:2008/9/20

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第四十話:「信長の妻(二)」

林新右衛門は、森与三との尾張における再会をたいそう喜び、
「これこそが御仏のご加護ぞ、お導きぞ。」
と繰り返して、与三の手に取りすがらん勢いで両腕を回してきた。
 与三とて見知らぬ織田家の中での知己との再会を喜び安堵する気持ちもあったが、新右衛門が
「余語殿もご一緒においでなのでしょう。よろしゅうございましたな。頼もしい限りですな。」
とのたまう言葉に多少ながらカチンときた。
余語盛種は尾張に来て以来、何かと織田信長に呼ばれてはそのまま出て行ったきりになる。与三などは信長から名前すら尋ねられていないと言うのに、どうしたことか、信長はやけに余語を気に入ったようである。確かに余語は姿形が整っているから、大勢の中にあっても、咄嗟に目につきやすい。

「さぁ、森殿、こちらへ、こちらへ。」
 新右衛門の招くままに織田家の那古野城の御殿屋敷の廊下を歩けば、続く道は明らかに信長の私的生活空間でもある奥御殿である。分かっている、新右衛門は主人でもある北の方・帰蝶の元へ与三を案内しようとしているのだ。それは既に新右衛門本人から聞いていた。しかし、今朝、いきなりの事だったので与三は緊張感がぐっと増した。
 さて、新右衛門が与三の身体に寄りかかるほどに近づいて、ささやくように言う。
「お方様はおなごながら企てをなさるお人じゃ。あれほどに優れた切れ者は男の中にもおらぬでありましょう。」
 そんな話を耳に入れつつ廊下を進めば、曲がり角にいきなり新右衛門の娘・英が音も立てずに現れたので、父娘とでお互いにぶつかりそうになった。英は水を張った盥を持っていた。与三がとっさに手を伸ばして英の手にした盥を支えておらねば、盥の中の水は廊下にぶちまけられて目も当てられない状態になっていただろう。今は、左右上下に振られてうねりを描いた盥の中の水が三回、四回と回って与三の袖や懐を濡らしてしまったが、しかし英はそれを申し訳ないと謝るどころか、自分の持っていた盥に向かって与三が野太い腕を伸ばしてきたことが恐怖であったらしく、まるで与三が自分を襲ってきたかのようにおののいて全身を縮めて廊下を後ずさりし始めた。盥を与三に持たせたままで。
 英は以前とは違って明るい桜色の着物を着ている、いや、誰かに、恐らくは女主人の帰蝶に暗い着物を見咎められて、明るい色を着せられているのだろう。しかし、それが何か彼女の表情や気質にはそぐわない色であった。
 新右衛門は娘の失礼も気にせぬように、
「英や。こちらにいらっしゃるのは美濃からおいでになった森殿じゃ。知らぬか。」
と、娘に問いかけたが、英は小刻みに横に首を振って森与三の事を知らぬと否定した。与三は英の必要以上の怯え方に傷つきながらも
「水の入った物は下から抱えるように持たれよ。そなたの持ち方はひどく危ういぞ。」
と盥を英の前に突き返した。英は愛想笑いもせずに、恐る恐るに盥を受け取った。英は、目線を横にそらしたまま、少しだけ、首を縦に振って礼をした。
それを見た与三とて『誰が笑ってやるか。』と口を真一文字に結んで不機嫌に見せた。ただ、新右衛門だけは、その二人が身体を向かい合わせにしてそのまま黙ってしまったのを、間に立つようにして、目を見張るようにしていた。

「英、お方様にお目通りを願いたい。」
父の新右衛門が優しくそう話しかけると、英はその場を外して足早に帰蝶に知らせに行った。そのトントンと小走りする振動で、英の歩く跡には盥の水がピチャピチャと落ちて点線を描いていった。それを後ろからたどるように見ていた与三はため息が出そうになったが、まさか新右衛門の前では娘への不服を顔に出すことはできない。
この新右衛門も変わった男なのか、何も感じていないのか、今の娘の粗相は言及せずににこやかに笑う。

 新右衛門と与三は接客の間に通されて腰かけていると、ほどなくしてそこへ帰蝶が入ってきた。たちどころにその部屋は、麝香のかぐわしい匂いがただよって与三の鼻孔を突いた。与三は貴婦人の高貴な薫りに嗅覚を刺激されてか意図せず顔が真っ赤になってしまい、それが自分でもわかったので、どうしようかと緊張して頭を下げたままになった。
帰蝶の後ろから、先ほどの英もついて部屋に入ってきた。
帰蝶は与三らの前に置かれた畳の上にゆったりと腰を下ろした。笑ってはいない。いや、むしろ眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。与三の姿をじっくりと見てはいたが、警戒し、観察するような視線であった。

 林新右衛門が話を切り出す。まずは与三を紹介した。
「お方様、こちらは森与三殿でござりまする。戦においては常に手柄をお立てになっておられます。」
頭を下に向けていた与三は、そこからさらに下向きにこうべを垂れてお辞儀した。
帰蝶は頷いた。
「先日、到来の折に既に皆のおる場で挨拶を受けました。生まれは蓮台村とか、隼人殿の元におられたとか。覚えておりますとも。」
「さようでございます。」
与三は、ようやく安心して顔をあげた。しかし、帰蝶は、眉をしかめたまま動かず、しかし呼吸が深くなった。理由は分からないが、その表情は憤慨しているかのようにも見えた。
「森殿。ならば妻子は関城に置いてこられたのかのう。」
「え。」
思ってもいない問いかけが降ってきたので、与三は拍子抜けした。
「いえ、拙者は妻子はおりませぬ。ただ、家来は御屋形(道三)様の元にお預かりいただいております。」
今度は帰蝶が目を丸くした。
「父の?」
新右衛門が横合いから乗り出して
「森殿は隼人殿の元では浪人分なれど、御屋形様のご信頼も厚いのでございます。軍議の時でも、若い森殿にご意見を求めるほどですぞ。必ずお方様のお力になれるはずです。ご安心くだされ。」
と言葉を補った。
”浪人分”などと、新右衛門は余計なことまで含んで発言したが、そうすると、ようやく帰蝶が顔の緊張を緩め、しかし笑うこともなく、与三の顔を真正面から見た。
「そうか。林殿がそれほどおっしゃるのなら確かなお人なのでしょう。よろしく頼みますよ。」
どこから湧きあがってくる感覚であろうか、与三は、帰蝶には信用されていないばかりか、疑われているのでは、と感じた。










第三十九話:「信長の妻(一)」    第四十一話:「信長の妻(三)」
 
 

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Date:2010/04/04
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